三島由紀夫「煙草」「春子」―プレ「仮面の告白」―
煙草
一昔前はダンディーな小道具だった(筆者も墓石に凭れて吸う刑事ドラマのシーンを覚えている)が、気づけば前時代の遺物と化しつつある煙草が効果的に使われた短編である。
と言っても難しいことはなく、煙草の向こうに広がる、大人びた世界に憧れる少年が頑張って煙草を吸おうとするも、結局は上手く吸えない―それだけの話だ。
一応「仮面の告白」に繋がる作品として、妖怪人間ベム的葛藤、即ち三島の「真っ当な人間でありたい」という願いを見るべきと思う。
思えばテレビドラマで煙草を吸うのは常に強面の男だったように、正常な存在でありたい(女を愛せる男になりたい)という「仮面の告白」の苦しみは、本作では(成熟への飢えと共に)煙草に仮託されている。
なお、夜の街の描写はとても美しい。
(略)毒々しくふるへてゐるさまざまな赤いネオン・サイン、明るきにすぎて何の趣きもない窓々、それらの一つ一つは美しいものではなかつたが、集まり合つてふしぎな均整を得てくると、それは消󠄁えないでふと暗い夜空に懸つたまま、永遠に微妙にふるへてゐる大きな幻の花火のやうだつた。
「仮面の告白」の
夜、私は床の中で(略)周圍をとりまく闇の延長上に、燦然たる都會が泛ぶのを見た。それは(略)光輝と祕密にみちあふれてゐた。(略)深夜家へ歸つてくる大人たちは、彼らの言葉(略)に、どこかしら合言葉めいたもの(略)をのこしてゐた。(略)彼等の顏には、何かきらきらした、直視することの憚られる疲勞があつた。(略)かれらの顏に手を觸れれば、夜の都會がかれらを彩󠄁る繪具の色がわかりさうに思はれた。
や「花ざかりの森」の夜汽車の幻想と繋がるだろう。
春子
春子という名の叔母は、お抱え運転手と駆け落ちするも、我がままな祖父によって家に引き戻される。
不良少年の私は春子と行きずりの関係を持つが、路子という清純な少女に恋焦がれてもいる。
ところが、春子と路子は女性同士、お互いに愛し合っていた。そして清純と思われた路子は、「私」と春子の爛れた関係の内実も知っていたのだ。
「(略)お姉様(注:春子)のやれといふことは何でもするわ。(略)」
と言ってはばからない路子は私の唇に口紅を塗る。
かうして何か別の(「何か別の」に強調点)唇が私の唇に乗り憑つたのが感じられた。
どことなく谷崎潤一郎「卍」の影響を感じる一編である。
またお抱え運転手と駆け落ちした春子の存在は「仮面の告白」の「私」の糞尿汲取人や電車の運転手への愛着に繋がるものだろう。
「私の唇」に乗り移ったものについては(本文に明記のないため私見となるが)性的な倒錯(女装)に伴うアイデンティティの変容ではないか。
やはり「仮面の告白」の、女性奇術師の松旭斎天勝への同化の欲望を読むこともできるかもしれない。
纏めると、「煙草」「春子」は共に「仮面の告白」の前準備の作として、相応の完成度を誇っている。
ただし「煙草」の脆い魂の震えは後に寓話性の漆喰に塗り固められ、「春子」の女性性のエロティシズムは抑圧され姿を消す。
三島由紀夫が自身の元々の素質のうち何を切り棄て何を残したかを見ることで、より興味深く読める短編と思う。
思いがけず堅苦しい記事になってしまった。
最後に今から「仮面の告白」を読む人に向けて書くが「仮面の告白」は(長編小説というより)散文詩として読んだほうが面白い。
適度に飛ばして構わないので、細部に光る描写の妙に着目すると割と楽しいはずだ。
読者諸氏の三島ライフが快適なことを祈って、当記事を終わる。