三島由紀夫「肉体の学校」「複雑な彼」

三島由紀夫の通俗小説に、今さら読む意味を見出す人間はほとんどいないだろう。
実際筆者が単なる物好き/マニア的な興味から読んでいると言われても文句は言えない。
ただ、改めて言えば1963年発表の「肉体の学校」及び1968年発表の「複雑な彼」は、どちらも小説の技法として小慣れてスマートであり、一種「消耗品」としての美しさを保っている。
そう、筆者は思うが、「百年残る文学」などいう大義名分を掲げたときから文学は駄目になった。消耗品で結構、羽より軽い虚構で結構。その軽さが思いがけぬ何かを呼ぶこともあるだろう。


肉体の学校

旧字体だと「肉體の學校」。

あらすじ

①浅野妙子は川本鈴子、松井信子という「離婚した女たち」の三人グループ「豊島園」―「年増園」!―で楽しく暮らしている旧華族。
②そんな妙子はある日、千吉というゲイバー勤めの若者と関係を持つ。彼はパチンコ店で妙子を待たせるなど数々の礼儀知らずの振る舞いに出るが、それが荒々しい男の魅力を示してもいる。
③妙子は千吉に惚れ込み、大金を払ってゲイバーから足を洗わせ、千吉を学校に通わせる。ところが彼は密かに室町聰子という名家の娘と関係を持ち室町家に食い込んでいた。

つまり、旧世代の女が新世代の若者に恋するものの、手ひどく裏切られるオチだが、本作はここからが面白い。

④妙子はゲイバーの照子というママから千吉の男性との性交渉中の写真を手にし、千吉を脅してみる。そこで明らかになるのは、千吉の安っぽい内面である。
「俺は(略)決して熱くならないで、クールな気持で、世の中を渡って行こうって(略)」。
若者のチャチなエゴイズム。戦後という荒廃を内面化し生きる無頼の男と見えた千吉は、実は甘ったれたガキに過ぎなかった。

こうして妙子は女友達に答えて言うことになる。

「あなたって勇敢ね。一番怖がらないのね」(略)
「そりゃそうだわ。私はもう学校を卒業したんだもの」

p259.


妙子は「肉体の学校」を卒業したのだ。
ぞんざいな情事、衝動的なキス、危険なあいびき……そうした肉体の領域に基づく美しさの体現者の千吉が、その精神においては愚劣な青年だった事実の前で、妙子は肉体―若さ―の美しさの正体を見てしまった。
それは単なる虚ろさ以上の何物でもなかった。

なお、中上健次氏の中本の一統ものと呼ばれる諸作品(「千年の愉楽」「奇蹟」外伝として「重力の都」)は、むしろその虚ろさゆえの若者の美しさを、オリュウノオバの語りに伴う路地の集合的意思で充填することによって成立しているように思う。

複雑な彼

冴子と譲二の、エキゾチックな恋愛を書いた本作は主に譲二の過去のカラフルなストーリで構成されている。
正直、どれもこれもメインとは関わりが薄い話だが、だからこそ語りの遊びの愉しさがある。
たとえば、譲二は井戸掘り人夫をしていたが、これは古参から順に掘るのである。
何しろ、初めはひょっと跨いで少し掘ればよいから楽だが、最後は地の底まで降らねばいけないだろう。だから新参者が一番苦しい目に遭うのだ……

きちんと筋を追って展開される物語ではなく、いくら語っても・逆にいつ打ち切ってもいい、単発のおとぎ話が次々と語られていく。
暇なときにパラパラ読むのが正しい読み方である。

で本題の恋愛譚はというと、譲二はヤクザ者だったのである。これで二人の関係は破綻。
けったいな右翼思想家は譲二に言う。

「よし。これで君は、女たちの世界を卒業した。今日から君の前には、冒険と戦いの日々がはじまるんだ」

p613.

一つの理念が、アンチクライマックスのうちに損なわれ、別の理念に取って代わられる。三島の十八番である。

雑談―作家と金―

これ以上語ることもない本作だが、強いて言うなら昭和作家の、取材旅行がバンバンできた時代のリッチな蜜の味がする。
最近は作家と農家は皆兼業で、あの「コンビニ人間」の村田沙耶香氏でさえバイトを続けているという。

今どき執筆だけで十分稼げる文藝作家はほとんどいない。
講演、副業、パートナーの稼ぎなどで、どうにか食いつないでいるのが現状である。
ここは二次大戦中のフランスの地下レジスタンスか。
「お前、済まない、お前の稼ぎにばかり頼って」
「いいの、いいのよあなた、あなたは今人類のために闘ってるの」……

(追記)
品のない(しかしそれなりに正当な)恨み言だから聞かないほうがいい。

バブル期の良い時代を過ごせた作家である、村上春樹氏が「純文学が滅びるならしょうがない」など発言していることについて。
実に腹立たしい。
せめて作中にプライベートブランドの一つでも出してから、ケツをまくって出直して頂きたいものだ。

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