萩尾望都「ゴールデンライラック」ほか二編
雑談
作家の伝記は数多く、作品批評はさらに多い。晩年は極右の陰謀論者に化けた江藤淳(でも「成熟と喪失」は素晴らしい)、謎のジジイこと柄谷行人(夏目漱石扱ったのがおすすめ)、村上春樹ばっかやってる「敗戦後論」(個人的にコレはペケだが)の加藤典洋(しかしたまにいい批評を書く)、映画狂人蓮實重彦(小説に関しては割と的が外れる)、作家のゴシップ譚ばっか扱う小谷野敦(性格は悪いと思うが書いてるのは面白い)、作家だとまず正宗白鳥(泉鏡花の作を「頭に鉢巻巻いてふんどしで踊ってる」と評していたっけ)と三島由紀夫(谷崎の「金色の死」扱ったのがおすすめ、なお本編は青空文庫で読めるがつまらない)、変わり種だと上野千鶴子と愉快な仲間たちによる「男流文学論」(上野氏はまともだが仲間たちが悪い、また村上春樹の「ノルウェイの森」がサンドバッグにされている)、海外には当然海外の批評家がいるが、こちらは寡聞にしてオーウェルの卓抜なディケンズ評を聞く程度である。
当記事は彼らの月光の狭間の六等星だが、しかし彼らのほとんどが見逃した、しかも極めて重要かつ欠かすべからざる観点に気がついている。
読者である。
読者の存在は、小説の批評からは不思議と抜け落ちる。当然本の売上など話にも上らない。
だが、下品といえば下品だが、あらゆる表現は読者ありきである。それがオルター・エゴのケースもあればロシア国民、果ては全人類というケースもあろうが、とにかく読者は必ず要る。
かつ、売り上げは作者には死活問題である。世の中の作家は東野圭吾と村上春樹だけではないのだ。山間の清水が如き売り上げで辛くも生活の渇きを満たす哀しき零細作家にとって、一千部と二千部の差には天地の開きがある。
かつ、大作家にさえこの手の悩みは絶えない。あの大江健三郎も晩年は作品を出すたびに売れ行きが減り(むしろあの作品群が売れたら売れたで怖いが)、三島も後半期の作品の売り上げは決して芳しくない(読者が三島に飽きたか、作品の持つ観念性が強まったせいか)。
しかし彼らのケースでさえまだ随分マシである。
本題
最も辛い―は言い過ぎにせよ、苦しいのは少女漫画家たちである。
何しろ、彼らの表現を享受する麗しき乙女たちは、やがて埃っぽい制服に袖を通し、その世界を「卒業」していく。
片や新世代の少女たちは、新世代の―もっと新しい絵柄の、新しいストーリーの―漫画家がハーメルンの笛吹きよろしく攫っていってしまう。
そして何より、作者自身も年を取る。
たとえばあのビートルズだって、いつまでもshe loves youの世界に留まってはいられず、ついに「Eleanor Rigby」のような人間の実存に迫る歌を紡いだように、人はいつまでも生の明るい面だけを見ているわけにはいかない。
ゴールデンライラック(1978)
【以下試し読み】
名作「ポーの一族」(1972〜1976)「トーマの心臓」(1974)を通り過ぎた1978年の本作は過渡期の作品という印象が強い。
あらすじ:勝ち気でおしゃまな少女ヴィーと、その家に引き取られたみなしごの少年ビリーの幼い恋物語という―イギリスが舞台でもあり―ディケンズを思わせる明るい作風は、ヴィーの父が飛行機の着陸のショックから寝込むに至って急速に翳りを帯びていく。
文庫にして150ページもある本作を要約するのは難しいが、もし他作品との関連から見るならこの後に来るコクトー原作「恐るべき子供たち」(1979)や「メッシュ」シリーズ(1980〜1984)の孤独や暴力、理解不能な他者を正面化して描いた作品群と、イノセントな幼年期を描いた作品群との、ちょうど蝶番に当たる作品ではないかと思う。
まとめ:作中、行動派のヴィーの目は情熱と、後半生は怒りとで赤々と燃え盛っている。本作は何より彼女の人生のメモワール(回想録)と言えよう。
一方物語としての深さについては、氏の他作品に数歩譲る。
エピソードが過剰に詰め込まれ(それが作品に勢いを与えてもいるが)、結果的に目まぐるしいカットの連続する映画のように、静止した一枚絵を―どうしても見せたい特別な風景や表情を―欠くきらいがある。
しかし読み応えは充分である。活き活きした人間ドラマを読みたい方はぜひ。
以下は小学館文庫で同時に読める「ばらの花びん」「マリーン」の感想。
ばらの花びん(1985)
本作は美青年ミシェルと、やはり美しい未亡人のファデットの恋模様を書いた佳作である。
舞台は世紀末パリ(裏表紙にはロンドンとあるが誤り。おそらくゴールデンライラックの舞台と取り違えたのだろう)。
話のムードは非常に軽い。繰り返し死が笑い話に付されるせいである。
たとえば未亡人ファデットは夫の死を棚に上げ「未亡人のどこが悪いんですの〜」と泣きじゃくるし、美青年ミシェルは何故か姉の婚約相手のマルスと臥所を共にする。あげく失恋自殺を試みるも、使った瓶のラベルこそ青酸カリだが……中身はハミガキ粉である。
もちろん死をユーモア化するのは悪くないが結果、作品自体が今日の華やぎを求める貴族の上調子に終始した感がある。
よく考えたら、死を笑うとはひどく恐ろしい、極めてデモーニッシュ(悪魔的)な行いである。
その非人間的な暗がりにまで入りこまなかった本作は、ユーモアとして飲み下すには背景が重く、シリアスと取るには軽すぎる。
強いて読みどころを探すとすれば、ミシェルの姉のセザンヌの、その自他境界の緩さがもたらす弟ミシェルへの歪んだ愛着(むしろ自己愛の変形と呼ぶべきだろう)の描写に、他者をコントロールしたがる萩尾氏の後年の作品群の母親たちの影が見える程度か。
マリーン(1977)
本作の原案は今里孝子―萩尾氏のマネージャーと聞く。
簡易なあらすじ:
流転を続ける少女のマリーンと、野心に溢れたテニスの才能を持つ青年エイブの悲恋物語。
より詳しいあらすじ:
①貧しい使用人のエイブは悪童たちに母のための薬を叩き割られてしまうが、それを見た美しい少女がイヤリングの片割れをお代替わりに譲ってくれる。
②「わたし…あなたを知ってるの(略)」と微笑む彼女は、その後海辺で自らをマリーン(海)と名乗る。
③その後エイブの母は死んでしまう。エイブはテニス選手としての頭角を現していく。
④彼女の本当の名前は「セオドラ・ビクトリーア・フィールズベリ」―「貴族のお姫さま」だった。当然エイブとは身分違いであり、さる子爵と婚約が決まる。
⑤エイブへの叶わぬ初恋から身を儚んだマリーンは入水し、話は①に戻る。
タイムトリップを使用した点でSFめくが、むしろファンタジーの色濃い好編である。
感想:個人的にはエイブへの想いを素直に表せない当て馬のディデットのいじましさに心を打たれてしまう。
彼女の激しい気性の持つ苛烈な美しさは前述の「ゴールデンライラック」のヴィーに続く系譜だろう。
また、これは誤読と謗られても仕方がないが、マリーンの美しさにはどこかで庇護者―理想化された母の気配があるようだ。
そして流転のなか過去の夢を見続けるマリーンと、現在に取り残されるエイブの対照は見事と呼ぶほかない。
よく読むとエイブへの叶わぬ初恋一つで入水するマリーンの動機に少し無理があるが、作品全体の持つおとぎ話の気配がそれを上手にカバーしている。
そして死と流転の夢のみが初恋を叶えるこの美しい逆説はいつ読んでも私の胸を打つ。
(蛇足)叶わない逆説の恋の美しさの大家と言えば、やはり三島由紀夫である。
そのなかでも初期短編「朝倉」は、女性の入水をロマン的に捉える点で本作と近しいものがある。
こうした作品を読むたび、筆者は木も草も水も水晶のように輝く懐かしい故郷に帰ったような、死に近づく一種の安らぎを覚える。
本作は平凡社の「夜告げ鳥」及び新潮社の「三島由紀夫全集決定版16」(旧版と決定版の二つあるので気をつけてほしい)に収録されている。
よければ読んでみてほしい。