見出し画像

萩尾望都「青いドア」―成熟を免除された男たち―


あらすじ

妻の喜代子きよこの父親が72歳で亡くなって/四十九日が過ぎたころ

p144.

電線が空を区切る、平凡な住宅街のコマのモノローグから本作は始まる。

妻は家のドアを/コバルトブルーのペンキで塗りはじめて

p144.

ドアは青いドアになってしまった
「キレイになったでしょ?」
「前からねえ別の色にしたかったの/白なんて汚れが目立ってイヤだったのよ」

 p144.

妻の言葉と行動に、主人公である夫の晴男はるおは「…へえ」と言うほかない。
そうしている間にも、彼の妻は
①家の一階を「ペパーミントグリーンの壁と天井に」 
②「(略)カーテンは黄色と白に」
③赤色灯を取り寄せ
④「へいの鉄柵をとりはらって山茶花さざんかとブルーベリーの垣根をつく」り
⑤「アーチ型の白い門を注文する」
挙句の果てには、
⑥「3百万円の温室ベランダ」を注文しようとする。(結局「100万円」にグレードダウンしたようだが)
いったい合計で幾らかかったのやら。

罪のない気晴らしのリフォームにしてはどうも様子がおかしい。
おまけに彼女は夫に奇妙なほど突っかかる。

(注:晴男)「リフォームはいいよ/だけど予算内でやろうよ/まだローンだって15年…」
(注:喜代子)「15年もこのせまい家でがまんして暮らすの?」
「この家きみが気に入って決めたんじゃないか/お義父さんに頭金を出してもらって」
「あなたは会社に行って寝るだけだから家なんかどうでもいいのよ」
「そうはいってない」
「わたしは少しでも住みごこちがよくなるようにと考えてるのに」「ベランダに置くガーデンセットだって決めたのに」
「だから予算内で」
「あなたはこのせまい家で」
「せまくて悪かったな」
「ベランダをつくれば広くなるのに/あなたは家がせまいせまいといってるだけなのね」
……どうしてこうなるんだ

p150.151.

ここから場面が少し転換し、彼と「生方うぶかたセンパイ」(短編「山へ行く」ほか二作の主人公でもある)バーでの会話が挟まれる。

「人の縁というのは業なんだよ沢山さわやま
「業?/……?」
「奥さんとの縁も業だと思って引き受けるしかないね」
「修行僧ですかボクは」

p154.

晴男が家に帰ると喜代子は明かりの消えた部屋で満月を見ていた。沢山は彼女の膝枕の上で眠ってしまう。

その夜/妻とふたり月に行った夢を見た/月は金色のススキでいっぱいだった

p156.

ページの約四分の三コマを、月野原のすすきをかき分けて行く晴男と喜代子の姿が埋めている。

その後物語は急展開する。

「あなた……!!/晴夫さん……!!/わたし赤ちゃんが……/赤ちゃんが…

p157. 


驚きと喜びの混ざった喜代子に対して、呆気にとられた顔をした晴男は、しかしすぐ熱っぽい喜びの表情に代わり、二人は抱き合って回る。
「妻のリフォーム熱はピタリと止まった」

ここで終われば「めでたしめでたし」だが、残念なことに続きがある。

(略)
「やっぱり幼稚園は私立のK大附属がいいわ」
「まだ先だろ」
「あなた/すぐよ」
「水泳は0歳から英語は…6歳からがいいわ/あなたのいとこイギリス帰りじゃなかった?」「ゲームなんかやらせないわ児童文学全集をそろえて…/ピアノを習わせてそれから海外旅行…」

p158.

妻に晴男は呆然としつつも、

カモーンベイビー/これもきみの運命/青いドアの家が/待っているよ

p158.

そう告げ、本作「青いドア」は終わる。

感想

どうだろう、これだけだと
「父の葬式で心を病んだ妻が子どもの誕生によって回復(?)する話」
にしか読めないが、にしては、違和感が小骨のように引っかかる。
それで思ったのは、この話が一貫して晴男の視点で書かれていることである。
だから、この物語そのものが意識的にも無意識的にも、晴男に都合よく語られている―そう考えるべきではないか。

たとえば、妻のリフォームに対して晴男が言ったセリフを以下、書き並べてみる。

「……へえ」(p144.雑誌?とポリ袋を手に)
「いやァきみの好きでいいよ」(p145.歯を磨きながら)
「まァ でもそんなに散財したらお義父さんの遺産なくなっちゃわない/ハハハ」(p146.ビール片手に)
「君のセンスはいいよォプロ並だ喜代子/うちの企画の連中にみせたいぐらいだよ」(p147.)
「きみの好きでいいよ」(p149.新聞から目を離さずに)

こうしてみると、話の印象はだいぶ変わる。

また、この喜代子という女性は決してリフォームがしたいわけではない。むしろ何かに「脅迫され」て否応なくやっている印象が強い。

それが何かは分からない。 
子どものために家を大きくしたかったのかもしれない。父の看病で割を食い傷ついた自尊心を取り戻したかったのかもしれない。
だが何より、彼女はもっと夫と関わりたかったのだと筆者は思う。

「キレイになったでしょ?」(p144.)
「晴男さんベージュがいい?/ベージュは暗いんじゃないかしら?」(p145.)
「二人の家だからあなたの意見も聞かせてほしいのよ」(p147.)
「ねえ晴男さんどうしよう」(p149.)

彼女の発しているメッセージは、私にはとても単純に思える。
夫ともっと話したい。もっと関わりを持ちたい―しかし晴男は前述の通り喜代子と話し合おうとはしない。
だから、彼女は晴男にヒステリックにがなり立てることで、どうにか関わりを持とうとしたのだと思う。
(二人は前々から家族計画を立てていたようだが、これも喜代子の働きかけで行われていたのではなかろうか)

また、晴男がバーに行くシーンは一見中休みのようだが、ここにもいくつかの盲点が潜んでいる。
まず、バーにいるのは男のみ―いわゆるホモソーシャルな場であり、それを裏付けるようにバーのマスターは
「沢山さん/ウサ晴らしに浮気でもしたら」
と彼にけしかける。

ここでは女性の主体と向き合わない男性のあり方が、無条件かつ無責任に承認されているのがわかると思う。
また、生方のセリフにも同様の特徴が見られる。
「犬か猫でも飼ったら/癒し系で」「じゃ子供だね」

成熟することを免除された男性たちは、配偶者との適切な関係を構築できない。
それを犬や猫や子ども(!)を媒介とすることでごまかしている。

「青いドア」は、一見読むと「病んだ女性」喜代子の物語に見える。しかしその背後には「いつまでも未成熟な男性」晴男の存在が常に控えている。
何が「カモーンベイビー」だ。 
晴男は喜代子の被害者でもなければ傍観者でもない。一人の当事者であり、喜代子という一人の女性と生を共有する責任を持っている。
しかし彼は逃げ続ける。いつまでだろう―死ぬまで?

晴男を取り囲む生方やバーのマスターもまた悪である。 
彼らは男性同士で、彼らの未成熟な主体を無責任に肯定し続けるシステムを身勝手に作り、そこで女性や子どもといった弱者はいつでも排除される。

河合隼雄が「個人の問題はいつも社会の問題である」と述べていたが、本作もまた、日本社会の男性の持つ固有の病理を可視化した作品のように思える。
(実際、「毒親」の母の背後には家庭に無関心な父がいるのは有名な話だ)



思ったより長い記事になってしまった。読んでくれてありがとう。

以下、筆者の書いた萩尾氏の記事を置いておく。「くろいひつじ」は家族を巡る葛藤を扱った小品。
「真夏の夜の惑星プラネット」はシェイクスピアと絡めたユニークなSFもの。
暇なら読んでくれると、私が逆立ちするくらい嬉しい。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?