佐伯一麦「石の肺」/「アスベストス」
アスベスト。知らない方のほうが少ないとは思うが、念のために解説しておく。
見出し画像にあるように、一見綿のようだが鉱物である。
細かい針状の組織を持ち、鉱物であるため、一度体内に入った場合除去は困難である。
この針が肺に傷をつけ、様々な病の原因となる。
日本では断熱材などで多数使われ、国がその危険性を認識した後も十分な対策を行わなかった結果、大きな被害をもたらした。
著者の佐伯一麦氏も約十年間建築業界で働き、アスベストの被害を受けた当事者の一人である。
佐伯氏の「石の肺」はノンフィクション、「アスベストス」はフィクションだが、内容は大きく重なっている。
「石の肺」で記憶に残った部分の話をしたい。大阪の「泉南」と呼ばれる地域の話。
石綿(アスベストの日本名)の害は、すでに経験的に知られていた。「あそこのお父さん肺病で死んだんだって、石綿を扱ってるからねえ」―と噂されるように。
しかし、たとえば石綿を他の繊維と混ぜる作業は、複雑な技術を必要とせず、誰でも働くことができた。
その結果、同和地区の被差別者、在日朝鮮人などがもっぱら職についた。
そして石綿従事者が病を患うことが原因となり、石綿仕事は地域で軽蔑されていた。
貧困というものを、筆者はそれほど知らずに生きてきた。私程度が何を思っても意味のないことだろうが、まるで言葉の出ない話だった。
「アスベストス」は全4篇。
「せき」「らしゃかきぐさ」「あまもり」「うなぎや」。それぞれの作品で、アスベストと関係のある人々の生活が、私小説的な抑制のある筆致で語られる。
「あまもり」は雨漏りをきっかけに、自宅の建材がアスベストを含むと知った父親がリフォームを行う短編。
この短編の元のタイトルは、「細かい不幸」。そのエピソードが記憶に残ったので、もしよければ話させてもらいたい。
父親―「私」の住んでいるマンションの管理組合の理事長に、「私」はアスベストについての直談判をする。
だが理事長の答えは「大丈夫」の一辺倒で、それ以上の根拠を示そうとしない。
「私」はそんな理事長のような人々について考える。
二車線しかない道路の違法駐車、ベビーカーに割り込んでエレベーターに乗ろうとする人々、同じくエレベーターで車いすを使う人に場所を譲らない人々。
確かにそれは「細かい不幸」と呼べる。だが、「いまの日本は、そういう細かい不幸が積み重なっている社会」ではないか、「私」は考える。
アスベスト被害は氷山の一角―と呼べるほど生やさしいものではないだろうが―で、むしろ日本という国にそうした傾向があるのではないのか。他人に対して構わない、考えない、想像することをしない。反省しない。
投票率の低さなども含めて、自分が他の人々と隣り合わせに生きていることに対する実感が薄い国ではないか。そう思う。私自身も当然その中に入っている。
「アスベストス」は基本的には小説的な技術より、扱う題材の重さに着目すべき短編集だろう。
なお「らしゃかきぐさ」には夏目漱石「カーライル博物館」が出てくる。慣用句の「沈黙は金」は元々このカーライルの言葉である。