桜庭一樹「紅だ!」―娯楽作品を情報量から読み解く
前書き
はすでに書いた。
端的に言えば娯楽作品の読者や視聴者は強欲な株主の如き存在であり、作者が一度配った情報のカードは決して手放さず、かつそれが最大の利益となるよう求め続ける、という話である。
よくわかんねえな、という方はノリで読んでほしい。
本題
桜庭一樹氏の「紅だ!」は2022年の7月30日に出版された。
あらすじ:紅という武闘派の女性と橡(ドングリの意)という頭脳派の男性のバディの下に、冴木雛月と名乗る謎の少女がやってくる。ところが彼女は巨額の贋札詐欺事件に関係しており、ダークウェブ"Dead or Alive"に―文字通り生死は問わず―懸賞金を掛けられている。
と同時に、紅と橡にはトラウマがある。
恩人の葉さんが火災に巻き込まれた際、橡は助けようとし、紅は彼を引き止めた―その判断の違いによってだ。
情報量から読む
まず、本作で読者に与えられたプラスの情報(展開してほしい情報)、マイナスの情報(解消してほしい情報)を確かめていく。
(※ここでいうプラス、マイナスは価値を含まない。
続きを知りたい情報は猟奇殺人事件でもプラスになり、主人公の初恋でも読者に望ましくない情報(相手の女性が当て馬役など)ならマイナスに区分する)
プラスの情報:紅と橡のデコボコバディ、謎めく少女、贋札詐欺事件
マイナスの情報:紅と橡の過去のトラウマ、ダークウェブ"Dead or Alive"の存在
では以下、各情報やその他細かな情報がどのように展開・解消されていくのか追っていく。
p10.
ここでは舞台設定が手短に語られる。
具体的な土地をよく下調べして書けば、それだけで読者に与える情報量を増やせる。
ここでは新大久保。コリアンタウンのイメージが強いが、現在は「多様な民族の街」に移り変わりつつあることがすでに情報である。
桜庭氏は「私の男」で北海道の紋別の土地柄を効果的に使用していたが、例えば遠藤周作「沈黙」の長崎、「侍」の(宮城県)谷戸(どちらも極めて貧しい土地柄)、三島由紀夫「百万円煎餅」の浅草(チープなアトラクションの多い当時の浅草の風俗を活かした)、同「金閣寺」の京都は夏目漱石「虞美人草」、谷崎潤一郎「細雪」、川端康成「古都」、綿矢りさ氏「手のひらの京」、森見登美彦氏や万城目学氏の作品群など多くの作家の作品の雅(?)な舞台背景となっている。
また伊坂幸太郎氏は仙台、中上健次は熊野、小川国夫は静岡県藤枝市が、それぞれ作品群の舞台となっている。
土地柄「オルチャンメイク」が出てくる。
「popteen」で調べたが、唇を赤くぷっくりと塗って韓国風の顔立ちにするメイクを指すようだ。
p13.でも、中東料理屋の「ラム焼きと農夫サラダ」が出てきて食欲をそそる。
なお、農夫サラダとはカジュアルなサラダ(?)らしい。
(要は食材同士を過度に混ぜないサラダ)
雛月(冒頭の呼称ハイタカ/偽名)の情報量は以下のように増やされる。
①服装
①スタンスミスのスニーカーはアディダスのブランド。その名はさるテニス選手から取られたらしい。価格は一万六千から二万円程度。
ここから雛月が(年に見合わず)金持ちと分かる。
②タイトスカート、ミルクティー色のブラウス、薄手のコートなどは都会的な印象を与える。
②セリフ
序盤は主に紅との応答。
雛月は紅に「イケメン?(略)大きな女?」と聞いておいて、「どっちにしてもおかしな人」と断定したり、自身の雛月(ハイタカ)という名を受け「私鳥だから」と答えたりする。
こうしたセリフ回しは読者に雛月の、
a.エキセントリックさ
b.おてんば・その裏の不安定さ
の情報を与える効果があると見込まれる。
ここからは物語を先に進めるための必要箇所であるため大きく割愛するが、弱肉強食の世界観が少女の雛月の口から語られるのは印象的である。読者には彼女が
a.何らかの権力が働く場所(政治、金銭、反社会的勢力……)
にいたのでは、という印象を与える情報だ。
p38.
脇キャラの藤原さんが紅と橡のセリフ上で扱われる。その特徴は紅のセリフ、
でわかりやすく説明される。
本来は違法だが、藤原さんは橡に捜査情報を横流しし、独自に調査を依頼している警察官。
知らない方もいないと思うがそれぞれ、レストレード警部はシャーロック・ホームズシリーズ、毛利小五郎は名探偵コナンの登場人物。
サブカルチャーの固有名詞(情報)の利用は読者にポップな印象を与えやすい。
その後雛月が再び登場。「グレーの服が斜めに切れ、血が滲んでる。」(p41.)その後も、
と、冒頭とは異なり弱った印象(情報)を与えるセリフを雛月は繰り返す。
この結果、読者は雛月について二種類の情報を手渡される。
a.弱肉強食的な価値観を持つ抜け目ない、エキセントリックな少女像
b.心身ともに脆弱であり(会話相手が紅であることから印象(情報)の強度は強まる)不安定な少女像
この両義性は、読者に雛月という少女の性格を一義的に決定するのを困難にさせ、ファム・ファタール的な魅力を持たせる。
上手な情報の示し方である。
p43.では紅と雛月の会話で、iPad、Kindle(電子書籍)、Amazon(ショッピングサイト)など比較的現代に生まれたツールが並び、作品の時代背景を伝える情報として有効に機能している。
p49.雛月のセリフ。
この時点では読者に(a.エキセントリックな少女像も相まって)、雛月が本当に爆弾を爆発させた可能性を与える情報として機能する。
なお、実際は雛月を冷遇した実家の家長の持病薬のインシュリンを棄て、間接的な復讐殺人に成功したことを示すセリフである。
p70.再び脇キャラ。佐野山彩綾。「黒縁眼鏡越しの目つきが鋭く、唇がとても薄」い、と、典型的な研究者風の容姿という情報が手渡される。
その後橡が栃木県矢奈部市(※架空の地名/閉塞的な田舎として書いているための配慮だろう)に行き、優秀な研究者の佐野山彩綾、印刷会社の跡取りの冴木工と接触する場面が約10ページを使って描写される。
なお、あらかじめ話すと贋札詐欺事件の真相はいささか無理がある(p92.〜97.)。
雛月と彩綾は気の置けない仲だった。
そのため、彩綾は雛月を喜ばせるため、高クオリティの贋札を作ってしまう。
しかしそれは雛月の策略の一環で、彼女は彩綾の友情を悪用し多額の金銭をせしめた、というもの。
だが一介の個人がそこまで精密な贋札を作れたら今ごろ日本経済は破綻している。
なお、贋札は一度ビットコインに変換されたと説明される。知らない方もいないとは思うが、仮想通貨である。
(小説は上田岳弘氏の「ニムロッド」くらいしか思いつかない)
やはり現代的な印象を与える情報として機能している。
ここで印刷会社の家業を継いだ冴木工が本来は「アクション監督になりたかった」夢を話すが、これは後々の工と紅の最終戦(p151.〜158.)で、なぜ印刷会社の社長が紅と対等に渡り合えるかの動機づけとして機能する情報である。
同時に(p34.35.の)雛月を探しに来た偽警官の正体は工であることもここで判明する。
苗字で察せたと思うが、冴木雛月はこの冴木家の忌み子である。
兄嫁が弟(冴木工)と結婚し、そのため元の兄の子ども(雛月)は疎まれた。
雛月の行動原理(読者に登場人物の一貫性を保証する情報)はこの復讐である。
(本作は「私の男」よりずっと軽いとはいえ、やはり血縁の物語である)
その後は紅と橡(しかし名前が覚えにくい。ツルバミである)の通常業務―ソウルモンブラン/架空の菓子である―を受け取る描写と、雛月による身の上話(本来はここで読者は雛月の口から冴木家の因縁話を聞く)が語られる。
なお、ここまでの情報だけだと、いわゆるミーハーな人間が流行りの菓子を望んだ印象を読者は強く与えられるが、実際は、
不登校の娘を想う父親の依頼だったと明かされる。
意外性を読者に与える情報の示し方である。
その後、p120.で、
と、橡に"Dead or Alive"から懸賞金が出された情報が示される。
読者にとってマイナスの情報である"Dead or Alive"の矛先が橡にも向いたことで増幅され、カタルシスに向かう緊張感はクライマックスを演出する。
その後、橡は金目当ての男女に捕まり殺されかけるも、彼らの会話(p139.)は、
と、どこか間が抜けており、作品が過度な緊張状態に落ち込むのを避ける。
彼らはp143.で懸賞金の取り分で揉め、その後p144.で橡が代理で計算するシーンは、読者にコミカルな印象と、橡が頭脳派である印象を共に与える情報である。
その後はマイナスの情報【冴木雛月及び、冴木家の娘が贋札詐欺事件の首謀者である事実を知る紅と橡の抹殺を望む冴木工】―を紅が、付与された【元テコンドーのオリンピック選手】という情報を活用する形で消去(撃退)する物語の必然であるため割愛するが、タコたちが蠕く舞台設定はナイトミュージアムも連想させ、作品の空気感をコミカルにする機能を果たしている。
命がけで橡を紅が救うことで二人は再び「相棒」となる。
語り損ねたが、作中何度も橡の語りで、葉さんが火災で死んだ際の紅の「一生、許さないからなーっ!」というセリフが反芻される。
読者はここから橡が葉さんを見棄て、紅は葉さんを救おうとしたと類推する情報だが、実際は逆で橡が救おうとし、紅が橡を止めたのだ。
本来の紅のセリフは、
と、橡ではなく葉さんに吐かれたセリフだった。
この情報から、紅は過去のトラウマ【大切な人を救えなかった負い目】を、冴木工の手から橡を救うことで克服したことが読み解ける。
その後、雛月は偽造パスポートと偽名(呉雀鷹)を使って中国に渡り、七年後には「フォロワーが一千二百万人」の「プロモーションを一つ投稿すると五十万ドルくらい動く」巨大インフルエンサーとなり、雀鷹(ハイタカの漢字表記)と名乗っている。
偽名の雀鷹/ハイタカの名前は、本名の雛月との対比から、彼女が望む人物像―鷹のように強く抜け目のない存在―を示唆する情報として機能している。
煩雑になるため省略したが、紅や橡と関係のあったデェン―ラオス人の青年はインターポールに所属しており、やはり七年後、シンガポール空港で雛月とすれ違うと、
とつぶやき、読者に一抹の不穏と続編の予感を漂わせ、本作は結末を迎える。
(ただし現状では続編は出ていない)
いくつか語り損ねた情報があり、例えばタイトルの「紅だ!」は紅が橡を驚かせるため日常的に叫ぶセリフだし、X JAPANの「紅」の歌詞もp68.69.で、葉さん、紅、橡の楽しい思い出として出てくる。
p29.で雛月を追ってきた殺し屋が「このカシオミニを賭けてもいい」と言うのは「動物のお医者さん」の漆原教授が元ネタだろう。
彼はゴジラと平清盛を足して二で割らない性格の持ち主である。
また、"Dead or Alive"は「公安の調査が入る」ことになるが、この情報だけでは読者に唐突の感を与えるため、警察官の藤原先輩が必要とされたと推測する。
最後に、序盤に読者に提示されたプラスの情報とマイナスの情報はどうなったか、見ていきたい。
プラスの情報:
(紅と橡のデコボコバディ→)冴木雛月の贋札詐欺事件の真相は紅のテコンドー、橡の調査で明かされ(展開され)た。
(謎めく少女)→違法行為に手を染めてでも力を追い求める、危うくも美しい少女雛月の姿は紅や橡との会話から展開された。
(贋札詐欺事件)→彩綾の口から、真相が明かされ(展開され)た。
マイナスの情報:
(紅と橡の過去のトラウマ)→紅は大切な存在を今度こそ守り抜くことで解消された。ただ、読み飛ばしがなければ橡の心理はやや不明瞭である。
(ダークウェブ"Dead or Alive"の存在)→公安によって然るべき対処がなされる。依頼主の冴木工も撃退済みで、それぞれ解消された。
まとめると、本作は読者にきちんとプラスの情報、マイナスの情報の双方を提示し、かつそのほとんどを丁寧に発展・解消された、よく練られた娯楽小説である。
ただ、強いて言えば橡の情報量に不足の感がある。
紅が雛月の保護や冴木工との決戦で大立ち回りを見せる(作中で与えられた情報をよく発展させている)のに比べ、橡は目立った活躍に乏しく、頭脳派であることから贋札詐欺事件の真相を暴く読者の期待も、真相が脇キャラの彩綾の口からあっけなく(充分な発展を見ず)解消されることで、やや物足りない印象が強い。
このほか書き損ねたことが何かとあるが、大枠は取れていると判断し、ここで区切ることにする。
読んでくれてありがとう。
(蛇足)本作は実に楽しく、実に読みやすい小説である。
仕事でパソコンとにらめっこし、目も痛く、くたびれた人も、こうした本なら一日十ページずつでも読んで、束の間、生の苦しみを忘れ得るのでないか。
大げさな物言いとは思うが、日々の労働で角の削れた消しゴムのような私たちにも読み得る物語として、こうした小説は貴重である。
と思って、こうして娯楽小説の仕組みを探す記事を書いた。
多少なりとも役に立てば嬉しいけど、ま、立たないだろう。
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