どーでもいー、ナボコフの話

ナボコフ。ああ、ナボコフ。「ロリコン」という言葉をこの世に生み出した男、ナボコフ。

さて。ナボコフについて、私はそれほど多くを語れる人間ではない。読んでいるのも、「ロリータ」「アーダ」「淡い焔」の三作品に限られる。それも斜め読みだ。
ただ、昔から気になっていた。「このナボコフという作家は、一体何が書きたいのだろう?」と。
作家たるもの(とりわけ純文学作家)は、必ず作中で自らのヴィジョンを叶えようとする。金閣寺を燃やしたり、友人の想い人を奪ったり、恥の多い生涯を送ったりして。美学を、エゴイズムを、弱さを、語る。
しかし、(少なくとも私は)ナボコフという作家の作品のなかに、そのようなヴィジョンを見つけられないのだ。
もちろん、ヴィジョンなんてなくてもいい。たとえば私は伊坂幸太郎氏の小説が大好きだが、そこに作者の生身の欲望はないし、それでいいのだ(彼の小説はいつも私に「もしかして、人生というのは意外とおもしろいかもしれない」という不毛な期待を抱かせてくれる)。
ただ、ナボコフの小説は、お世辞にも面白くない。疲れる。普通の小説とは、そもそも読むときに使う頭の領域が違うようだ。なんというか、複雑なクロスワード・パズルや、数学の大問を解いたときの感覚、模試の後の、頭が「ぼやん」とする感覚なのだ。

で、私はこの感覚に覚えがある。そう、
「ナボコフって、ロシア生まれの筒井康隆なんじゃ?」
それが、私の現在たどり着いた結論である。

筒井康隆といえば、「時をかける少女」で知られているだろうか。細田守監督の映画もよかったよね!(個人的には今敏監督「パプリカ」が好き)。「旅のラゴス」は素直に面白い、「わたしのグランパ」も痛快、好き!
でも、知っているだろうか。筒井康隆には、死ぬほどつまらない「実験小説」の一群があることに。
「残像に口紅を」は知られていると思うが、あれもストーリーめちゃくちゃつまんなくない?文学理論が延々続く。つらいね。
「虚人たち」もきつかった!原稿用紙一枚につき、一分間であってる?時間が進むという、まあたけったいな小説なんだなあ。
「虚航船団」。「ココココココココココココココココココ」何だと思います?ホッチキスが針を飛ばしているのです。
「朝のガスパール」もほんとに、ほんとにもう、大変消化不良な小説でー!

そう、私はふっと思った。ナボコフの小説は筒井康隆の、不良「実験小説」に似ていると。
たとえば、淡い焔のあらすじ。まずは主要人物二人。詩人シェイドと、彼の詩を読み解く男、キンボート。
 
が、この人間関係から「詩によって結ばれた二人の宿命」みたいなリリカル・ストーリーは全く生まれず、トマス・ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」もかくや、という神経症的「誤読」が解釈者キンボートの手で繰り返され続け、しかも彼はそこから(おそらく彼の頭のなかにのみある)ゼンブラ王国についての話を始め出すのだ……。

頭が痛い。今も私はシェイドの詩とそれに対するキンボートの註釈をバッタンバッタンページをめくって読み比べている、が、はっきり言って限りない人生の時間の無駄遣いを今自分がしているという思いが頭を離れない。

いや、楽しいのだ。本を読む喜びは、大いなる無駄の喜びである。しかし、ナボコフはこの小説を誰に読ませるつもりなのか。この「我が道を往く」世紀末覇王な感じ、実に筒井康隆だ。

だから、ナボコフオタクに怒られるかもしれないが、ナボコフの小説は「ロシアの、立派な作家!」という感じで読まず、「あー、またこの人バカやってんな」という感じで読めばいいのではないのか、と思った。筒井康隆と同じように。

「ロリータ」は色々解説があるからいいとして、最後に「アーダ」の話を。これ、SFである。
そして、章がどんどん短くなっていく。受け売りだが、「年齢を重ねるほど人生の時間が短くなる」ことを示しているらしく、第四章に至ってはまるまる時間論にページが割かれている(ね、筒井康隆っぽいでしょ)。
ストーリーは二人の血縁関係のある恋人たちが、確か小説を出版するとか何とか……そんな話。たぶん誰もよくわかってない。

今度は「賜物」を読むつもりだが、ここまで来ると、ほぼじいさんの焼き物道楽みたいな次元の話である。読者は読まなくてもいいし、人生そのほうがかえって有意義になると思う。それでも確かに、悔しいが、ちょっと、ナボコフ(筒井康隆)は面白い。

ほんとにどうでもいい話だが、ナボコフは蝶の採集家でもあり、円城塔「道化師の蝶」にそれに関係する話が出てきたはずだ。彼の小説もまたややこしいものばかり、まとまった感想が(特に最近の作品で)見つからないので、「俺は読めるぞ!」という読者諸氏には、ぜひ一筆書いていただきたい。読むよ、ほんとに。





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