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三島由紀夫「彩󠄁色硝󠄁子」
読み方は「だみえガラス」。三島由紀夫が十五歳で書いた作品である。
「甥っ子の恋路を夢想することに生き甲斐を得る、(俗物の夫を持つ)奥さんの話」。
作中で軽井沢が出てくるわ、甥っ子の狷之介と娘の則子がお互い―恋心の裏返しから―憎み合ってるわ、堀辰雄の初期作品を(特に「聖家族」)思わせる。
ただ堀辰雄の作品にある軽やかな詩情は本作にはなく、代わりに心理小説の硬質な手触りがある。
よって、読後感はやや息苦しい。
それと全体的に力が入りすぎ。後半、俗物の夫、その奥方、狷之介の三人の手記を並べて話を進める下りは技法として成功しておらず、いたずらに読みにくさを増しただけだと思う。
「化粧品賣場では粧った女のやうな香水壜がならんでゐた。」
(この書き出しからして肩に力が入っている)
それと、以下は後年の三島の皮肉を思わせる下り(好きじゃないけど)。(耽美的な下りでもないので新字体で写す)
彼女(注:外国暮らしを自慢とする(自称)婦人運動家)は十年一日の如く日本の男性の横暴さを指摘しつづけてきた。「果してこれで日本は紳士国と言えるでしょうか」そういう決まり文句を随想のあとにかならずつけた。「それだから日本の男は……」二言目にはそれだった。それだから日本の女は……とは先づ先づ言わなかったとみてよい。なぜなら彼女は自分の十八の下女にだけそう叱言を言うのだから。
世の中変わらないものだ(男の愚かさも含め)。
結論づけると読むこたない。朝露の如き儚き浮世に生まれ浮世に死ぬ人間にそんな余裕はない。
十一分で筆者は読んだ。
この十一分につくづく感謝し、皆さんは伊坂幸太郎氏の新作の「楽園の楽園」か、どうしても三島由紀夫が読みたいなら「翼」や「憂国」や「金閣寺」や「午後の曳航」でも読んだらよろしい。
しかしこの皮肉と心理主義から、三島は「花ざかりの森」を境に擬古典主義に向かい(見事なものだった)、しかし間近な死が敗戦により喪われ資本主義の跋扈する戦後日本においてその作風は再び皮肉と心理主義に戻り、しかし元々美的なものや超越的なものへの希求性を持った人だから現代の戯作者の位置にも留まれず「憂国」やら「英霊の声」やら「豊饒の海」やら無茶な作品を書きまくった挙句訳わからん激を飛ばして死んだのである。
正直、三島ほど作風の変化を追うのが面白い作家はなかなかいない。
だから、とりあえず私は楽しかった。
(追記)フランス心理小説は今じゃ冷や飯食いだが、大岡昇平の「俘虜記」や「野火」の激烈な戦地の現実を冷徹に腑分けするあの独特の読み心地は、やはりフランス心理小説の、登場人物たちの心理をガラスを一枚隔てて書く技法の延長ではないか。
その意味で、フランス心理小説の主題性(人間心理の追求)は古びても、その技法は今しばし生き永らえたのである。