最近読んだ本・短歌・漫画
※性的な話題を含みます。
飛浩隆「ポリフォニック・イリュージョン」全編・「鹽津城」二編
ポリフォニック・イリュージョン:ポリフォニックは日本語にすると多声的(ドストエフスキーの小説批評でよく見る(でしか見ない)音楽用語だが、女が気が狂うか聖書を読むかしかしない作家のどこがどう多声的なんだ?)。
なお本作は恋人たちの霊魂を機械的な技術で「成仏」させる話(NHKの深夜ドラマでやってほしいな)。
異本:猿の手:ジェイコブスの猿の手の逆の「願いの叶わない猿の手」の話。でも結局不幸になるのは同じ。
「初めから何も願わなければよくない?」
というのは野暮。
人は何かを欲さずには生きられない。
なお、タイトルについて飛氏はこんなコメントを残している。
地球の裔:桜の花がきれい。山中智恵子の短歌を思いだした。
「さくらばな陽に泡だつを目守りゐるこの冥き遊星に人と生まれて」
いとしのジェリィ:手塚治虫の「火の鳥」のムーピーみたいなゼリー(ジェリィ)生命体が出てくる話だ。
男はいつも怯えている。二人男がいれば互いに怯えている。男は男が怖い。つまらないユーモアをぶつけ、女を小馬鹿にして、どうにか怯えをごまかそうとする。馬鹿馬鹿しい。滅べ。
話を戻すと、このゼリー状の理想のパートナーはその男の怯えを包む母の羊水ではなかろうか。
完全に話が逸れまくりだが、私も一時期かわいい女の子に
「〇〇さんは今日も頑張って偉いですね」
「〇〇さんお帰りなさい、ご飯できてますよ」
とか全肯定されて生きることを夢見ていた。夢想の間、私はいつも彼女に膝枕をされ、頭を撫でられていた。まあ、カッコよく言えば優しさに飢えたsixteen lonely wolfだったのである。
幸いにして私はそんな夢を見なくなった。
彼女も私の頭の重みから解放され、今はフルマラソンか砲丸投げにでも挑戦してくれてるといい。
夢見る檻:某国の発明した脳みそを食うカビに襲われた可哀想なダグラス・ベイカー救出大作戦。
ダグラスの脳内の滅びゆく夢のイメージが美しい。
記憶つながりで、リドスコ監修の映画「リピーテッド」(記憶障害の女が殺人鬼から逃げるサスペンス)を思いだした。ちなみに面白くないからうっかり見ないように。
星窓:昔remixed versionを読んだからパス。気になる人は「アボカドトマトナス 自生の夢」で今すぐ検索だ!(二件出てくんだけど?)
情報弱者の読者諸氏のため重い腰を上げて書くと、とってもチャーミングなお姉さんが出てくる。
なお私の知る最もチャーミングな姉が本作、最もチャーミングな妹は、
「妹よさ緑の競馬を見に行こうきっと誰かが落ちて死ぬから」
という塚本邦雄の短歌……、のはずだがさっぱり見つからず。(記憶違いかもしれない)
この歌の他者の死を軽蔑し弄ぶ美しい酷薄さが好きだった。
未の木:森一と杏子夫妻(仕事の都合でバラバラに暮らしている)が、結婚記念日の贈り物としてお互いに木を贈る。木はミニチュアの彼ら(動く)を生やす。
最後、これが並行世界の話だと判明する。杏子の生きる世界では森一が、森一が生きる世界では杏子が死んでいる。
私の説明がアレで分かりにくいが、死者と生者がつかの間入り乱れる危うさと、木に実るミニチュアの森一と杏子の不気味さが、深い悪夢のような読後感を残す。
鹽津城:ざっくりまとめると、a.近未来(海が真水と塩に分離し、謎の力で発展する塩の結晶の山が地上を破壊する世界)とb.近未来の並行世界(その大災害が起こらなかった世界/c.の超未来を予言する漫画が出てくる)とa.から続くc.超未来(塩の結晶の上で人が生きられるよう進歩した世界/その生活空間の名称が鹽津城)の話。
要は神話×並行世界×ファム・ファタールSF。何一つ分からない(最高)。
なお、b.の世界で(なぜか)ワンピースのオマージュが出てくる。本当に謎(でも面白い)。
(追記)以下に載せた年間読書人氏の記事を読んで気づいたが、確かに本作では記紀神話がなぞられている。
ただ(文芸と娯楽を並べて話すのはアンフェアとも思うが)例えば中上健次や大江健三郎のように、神話性をどうしても必要とするだけの世界観は本作にはない。
そのため、要所要所に「ラギッド・ガール」(「グラン・ヴァカンス」の設定を埋める連作短編集)と似た知的操作の気配がある。
それはクールでソリッドな(こう横文字まみれだと村上春樹みたいで嫌だけど)読後感をもたらしているが、やはり私が飛氏の作品に求めるのは谷崎潤一郎の「魔術師」のような、センス・オブ・ワンダーの溢れかえる魔術的世界の創造なのである。
ただ、それはそれとして非常によく練られた作品である。
特に現実世界のフェリーがあれよあれよと神話的な翻訳を受けていく場面は(これだけだと伝わらないが)とてもユニークだ。
ピーター・スワンソン「8つの完璧な殺人」
「カウチ・タイム」が人間には必要だ。
―ふかふかのカウチに腰掛け、ポテチをボロボロこぼしながら食べ、前歯から大臼歯まで虫歯にする大量のコーラをがぶ飲みする時間。
そんなときのお供にこの小説はうってつけ!
話はとても簡単―ミステリー好きの書店員マルコムがネット上に公表したオススメ・ミステリー十選を模倣した殺人犯が現れる。さて彼の正体や如何に、という話。
話の都合上色んなミステリーのネタバレがあるが、私はどの道推理する頭もなく毎回毎回、
「ほおー、やっぱり大学行っとる先生の考えることは違いますのう」
と感心する田舎のじっさまみたいな気分でミステリーを読んでいるので何も気にならなかった。
以下ネタバレ
かわいそうに、主人公の妻のクレアは過去、ロクデナシの男アトウェルに薬物漬けにされてしまったのである。主人公はアトウェルを憎み、ネット上で知り合った男マーティに「交換殺人」を持ちかけ殺してもらう(当然このとき主人公側も人を殺している)。
その男マーティが今回の犯人だった(なお理由は妻の不倫)。
しかしまあ救いのない話だ。
ちなみに推理小説読もうと、東野圭吾「ある閉ざされた雪の山荘で」ジョン・ディクスン・カー「皇帝のかぎ煙草入れ」島田荘司「斜め屋敷の犯罪」を読んだ。
順番に感想を言うと、「学芸会か?」「女の頭がハッピーすぎる」「アホ抜かせ」となる。
以下ネタバレ(雪の山荘は試し読みが見つからず)
実は役者の卵たちを憎んでる女がペンション内部にこっそり隠れていた。復讐の動機はバカバカしすぎるのでパス(調べりゃもっと親切な記事が出てくるさ)。
ちなみにこれ、小説にはまだ叙述トリック(隠れてる女の視点が三人称に見せかけられてる)があるが、映画版にはこの仕掛け、当然ない。その結果、水とカルピス九十九対一みたいな出来になっている。
次。元夫(なお重婚)が頭ハッピーな妻に容疑をかけようとした。本当に死ぬほど頭パッパラパー。私と違って実に長生きしそうである。
次。ツララにナイフを入れ、屋敷の(お面などで隠された)斜めの通路を滑らせ密室殺人に見せかけた(ツララは蒸発するのでナイフだけ残る)。
恩田陸「夢違」
弱っている人間が好きだ。
両手でコーヒーカップを握りこくこく呑む美青年とか、大量の薬を飲まないといけない深窓の令嬢とか、「ポーの一族」のメリーベルとか、(我ながら気持ち悪いけど)大好きだ。
ということで、ドラマ化された「悪夢ちゃん」―原作から改変され、予知夢(悪夢)を見る結衣子が少女になっている―は私の好みとして実に良かった。
で、原作を十数年越しに読んだ。途中までは死ぬほど面白い。
結衣子は予知夢界のカリスマ的存在であるが―某青い鳥が焼き殺されたSNSを見りゃ分かるように―優れた存在はやっかまれる。
その結衣子が死後に人々の普遍的無意識に侵入し始めるという妖しくも美しい趣向が、予知夢の読み解きというライトSFの面白さと重なりものすごく面白い。
問題はあらゆる伏線がまったく畳まれないことにある。
もし話を作るなら村上春樹テイストで意識と無意識のせめぎ合いみたいにするか、むしろ夢幻劇(謡曲みたいな)の方向に持っていくか(個人的には後者であってほしい)かな。
坂田靖子「堤中納言物語」
これだけ読めば「堤中納言物語」の内容がそっくり頭に入る。脱力した絵は素敵、余白の使い方は実に上手い。
坂田靖子さんの作品だとほかに「ビーストテイル」のシンデレラの翻案(とっても健気でかわいい)と「村野」の桜もちを置いて逃げちゃう鬼と弟子の不始末で冷蔵庫暮らしになる吸血鬼の話が好き。ほんわかした絵とユーモアの背後に、ときどき人間の残酷さが滲む。その塩梅が素晴らしい。
川野芽生「星の嵌め殺し」
はるまきごはん氏の「再会」の歌詞を思いだした。起こるはずのない奇蹟をそれでも望む願いの悲しさが似ている。
単なるモラトリアム、または成熟に対する甘えと言えばそうかもしれない。
いや、違う。
なぜなら今この世界のどこにも少女が少女として生き続けられる場所はないのだから。
生まれる前から殺されることの決まった家畜のように生きることへの、少女たちの拒絶と叛逆の現れとして各歌は捉えるべきだろう。
目から剥がす「碧眼」は、おそらく青いカラーコンタクト、「夜の底をあふれ出す花々」はゴミ箱に捨てられたカラーコンタクトの隠喩か。
(以下は私の妄想になるが)さすがに家の中でカラコンを付ける人間もいないと思うので、この女性はどこかへ出かけたのだろう。
また行先は就活などのフォーマルな場ではない―しかし何となく張り詰める場に行っていた気配がある。カラコンは素の自分との間に築く緩衝壁か。
そしてその用事が無事に終わり、責務を終えた自らを静かに誇り、祝うような心地がカラーコンタクトのゴミさえ美しい「夜の底をあふれ出す花々」と感じさせたのではないか。
以上謎の妄想。
井上法子「永遠でないほうの火」
この歌はユーモラスなのか深遠な意味があるのか。わかる人は教えてほしい。
川野氏の短歌と合わせて読んだが方向性の違いがわかってよかった。川野氏の歌は散文に発展しそう、井上氏はどこまでも詩である(どちらがいいと言うのではなく)。
永井陽子「てまり唄」
小さなころ、カーテンの向こうの世界が滅びたことにして眠るのが好きだった。
街灯の銀色の光が洪水のように溢れすべてを流し尽くし、二度と朝(テレビの占いと天気予報、挨拶とホームルーム……)が来ないと信じて眠るのは心地よかった。
今でも、私は夜空が次第に明けていくのを見るのがパサついた卵焼きより嫌いである。真昼も大嫌いである。夕暮れと夜だけの世界が来てほしいと心から願っている。
そのことを、この歌集を読んでふと思いだした。どの歌にも禍々しくも安らかな滅びの気配が漂っている。
「凶鳥の黒影―中井英夫に捧げるオマージュ」
私は中井英夫の良き読者ではない。ぶっちゃけ「虚無への供物」の魅力も未だに分からない。
ただ、どの作家であれ、その作品が好きな人の話を聞くのはまず間違いなく面白い。
ということで様々な作家のオマージュが並んでいたが、一番素晴らしかったのは有栖川有栖氏の「彼方にて」。
江戸川乱歩に「火縄銃」という作品がある。さすがに誰も読まないと思うので種を明かすと、不仲の兄弟の弟の火縄銃が寝ている兄を撃った―しかも、ひとりでに。
乱歩に言わせると「アア、犯人のない他殺。その様な奇妙な事実があるであろうか。」
その真相は窓際の瑠璃瓶(ガラス瓶)が太陽光を集め、火縄銃の縄に点火させたのであった。
子供だましのトリックと言えばたやすいが、乱歩に譲歩すると、この謎は世界につかの間の亀裂を呼び起こす。
銃が持ち主の殺意を汲み取り、主人に代わって人を殺す付喪神・百鬼夜行の世界。世界の条理がねじ曲がり、人がひとりでに殺される世界。
ミステリー小説はすっかりジャンル化し、今ではどれだけ珍奇なトリックを出せるかの勝負と成りつつある感があるが、本来はこの世にあってはならない―あり得べからざる「反世界」を呼び起こす禁忌の魔術だったのではないか。そんなことを思った。
蛇足
その他は大した本も読んでない。
幻想文学の山尾悠子氏が文体を整えたジェフリー・フォードの「白い果実」でも読んで素敵な趣味の持ち主を気取ろうとしたが諦めた。取り敢えず、
「火蝙蝠はカレー味の鳩みたいな味がする」ことだけ伝えておく。何かの役に立ててくれ。
村上春樹氏の「街とその不確かな壁」はまったく読む気がしない。昔、村上氏はSFと純文学を融合させた作家カート・ヴォネガットを「時代に置いていかれた作家」(さすがにもうちょいマイルドな言い方だったと思うが)と評していたが、その言葉がそっくり帰ってきてる感じである。
ポール・オースターの「4321」もまるで読む気がしない。何でも複数の人生を生きる並行世界を通じてアメリカの歴史を描いた大長編らしい。
フィリップ・ロスの「背信の日々」もそんなことをやっていたが、アメリカの作家連中はみな書きすぎである。サリンジャーを少しは見習え。
桜庭一樹氏の「私の男」は面白かった。父と娘(疑似)の近親相姦が扱われている。現実なら絶対御免だが、フィクションは夢であり、どんな醜さえ美だと偽れる。
近親相姦はしばしば―人間の踏み越えてはならない禁忌を越えるという点で―物語・文学においては神話的な意味を持たされてきた。
例えば源氏物語、フォークナーから繋がるガルシア・マルケス「百年の孤独」と中上健次「岬」と大江健三郎「同時代ゲーム」(これだけ未遂だが)、倉橋由美子「夢の浮橋」(これも次作「城の中の城」で不首尾と判明するが)などなど、後を絶たない。
強いて言えば小林秀雄が三島由紀夫「金閣寺」に言ったのと同じイチャモンをつけられる。
というのも、この小説で娘の腐野花は大人となり(それが原因かは不明だが)父に棄てられるが、本来は小説はここから始まる。
小説とは絶対(神)の不在から生まれるものだ。人の心は揺れ動き、世界は有為転変を繰り返す。だから、絶対(美しい愛、悲惨を超える人間の損なわれ得なさ、信仰……)が見いだされたら小説は終わる。
その約束事を破り、「金閣寺」は美を、「私の男」は近親相姦(彼岸・神々の愛)という「絶対」を作中に呼び込んだ。
それは文学というよりは多分、散文詩の手法であろう。
ということで、私は「私の男」第二部が読みたい。完結した「明暗」より、「カラマーゾフの兄弟」の続編より、三島由紀夫の「藤原定家」より読みたい。是が非でも読みたい。上記はその欲望の無理くりな正当化である。
そう、三里塚闘争(成田闘争)―成田空港建設に際する農地の買い上げに反対する農民・支援する左派と警察との闘争―に参加した元共産党員のお婆ちゃんの本(郡山吉江「三里塚野戦病院日記」)を読んだ。
無意味な闘争という感想のみ残る。参加者は歪な熱に浮かされ、大きな目標ではなく、目先の出来事に完全に呑まれているが、警察も愚かで無知である。
誰も事態の全体像を捉えないまま、暴力のタガだけが外れていく。
今ごろ彼らは修羅道に転生して、頼朝や信長やドナルド・トランプ(……失礼彼はまだ存命だった)と手を組み血で血を洗う戦に明け暮れているに相違ない。
途中に出てきた、恋人の編んでくれた襟巻きを何度も失くしてしまう青年の姿だけ記憶に残った。
(追記:なお現在の日本共産党は武力革命を完全に否定している。
そりゃ社会主義・共産主義を支持はしないが(もし本当に実現するならアダムとイヴはまだ楽園にいただろう)、ここ最近のアカハタの活躍ぶりが実に見事であるのもまた間違いない)
また何か面白いものを見つけたら書く。こんな場末の記事に目を通してくれてありがとう。
大変嬉しい。