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三島由紀夫「孔雀」(修正版)
この作品は一年前に紹介したのですが、何かと読み解けていない点が多かったので、再度書きます。
昭和四十年/一九六五年―今からちょうど六十年前に書かれた短編となっています。
まず、本作は地主の息子の富岡―名前通り土地持ちの富豪です―の元へ刑事がやってきて始まります。ここだけだと「三島由紀夫の刑事小説」といった感です。
彼の嫌疑は、タイトルにもある孔雀殺しです。孔雀の置物、織物、硝子細工の孔雀……彼は道楽者の孔雀狂いでした。
富岡は、昔は絶世の美少年だったのですが、今の彼は「むかしの富岡の拙劣きわまる戯画」―(晩年のピカソみたいに)自己模倣の気配があるようです。
さて、やはり現実に忠実な描写より、無数の比喩や衒学的なレトリックの重ねがけによる、めくるめく幻の創出に三島の本領は発揮されると思います。
本作では以下が該当する下りと思います。
(注:孔雀の羽根の)豪奢は、多分創造の最後の日、空いっぱいの多彩な夕映えの中で創り出され、虚無に耐え、来るべき闇に耐えるために、闇の無意味をあらかじめ色彩と光輝に翻訳して鏤めておいたものなのだ。だから孔雀の輝く羽根の紋様の一つ一つは、正確に夜の闇を構成する諸要素と厳密に照合しているはずだ。
冷静に読むと(お前は何を言っているんだ)という話ですが、なかなか素敵ではありませんか?
孔雀の羽根の美しさは実は世界終末の闇に抗うためだった―短歌の題材になりそうです。
……問題は本作は短歌でも詩でもなく小説ということです。
そして皆さん、「孔雀殺し」という猟奇事件を巡る探偵小説を読んでいて、突然上記の文が出てきたらどうしますか。
読み飛ばす方がいたとしても不思議はない。
そう、後期三島作品は読者との着地点が行方不明なんですね。
単独で取り出すと「よっ、三島屋!」と掛け声を掛けたくなる素敵な下りですが、「孔雀」という短編小説として見ると、作者が地の文でこれだけ語ってしまうのは正直悪手でしょう。
ストーリーテリングを用意するか、(ドストエフスキーの登場人物のように)毎日ニーチェの漬物を食べそうな人間を用意して語らせるのが筋ではないですか。
そして「孔雀殺し」事件は(特に盛り上がることもなく)急展開を迎えます。犯人は少年時代の富岡だったのです。
私の話をしてもいいですか。初め読んだとき、頭に大きな「?」が浮かびました。
だって中年の富岡はこちらにいて、少年の富岡があちらにいる。富岡が二人に分裂してるじゃないですか。
いや、例えばガルシア・マルケスの作品なら理解できるんです。
浜辺に行けば天使がサバを貪り道を歩けば七色のロバがトランポリンで飛んでいるあの作風なら、
「おお、分裂した分裂した。何人増えるかな?」で済む。
でも、本作にその傾向は一切ありませんでした。直前の描写も、私たちの身に馴染んだリアリティを志向する描写です。
改めて読んで、はっきり言えば本作は失敗作だと思います。
というのは、本作は読者の側で、「これは寓話だ」と読むことでしか、作品が成立しない。
解説で「ドリアン・グレイ」の話が出ていますが、そうですね、同様の若さをめぐるおとぎ話と取れば理解はできます。
片方に孔雀殺しをする美しい少年がいる。もう片方に金には困らず生きる醜い中年がいる。富岡という人間はこの両者に分裂しているわけです。
三島風に言えば「行動する者」と「認識する者」と呼んでいいし、「死ぬ者」と「生き延びるもの」でもいいでしょう。
美少年の富岡(過去)は夜の闇のなかで孔雀を殺め続ける―ちょうど異教の儀式のように。それは恐ろしく孤独で、しかし美しい行為です。
しかし、そうした美の「戯画」(パロディー)となって生きる中年の富岡(現在)には美に殉じ生きる(死ぬ)道は残されていない。
彼は父親の残した遺産を食い潰し、昔は美しかった妻を抱え、本物の孔雀のパロディーである芸術品を集め、ただノロノロと生き続けるだけです。
「朱雀家の滅亡」という戯曲が三島にあります。日本が戦争に負け天皇という絶対者(偽物の、と呼ぶべきですが)も息子も喪った一人の男の話です。
その最後、彼はこう告げられる―「滅びなさい」。それにこう答えます。「どうして私が滅びることができる。夙うのむかしに滅んでゐる私が」。
本作の富岡も、「夙うのむかしに滅んでゐる」人間でしょう。
今は人間の「死の定義」はどうなっているのか―ちょっと前には「脳死」や「植物状態」を死と見なすかで論争がありましたね。
安楽死や尊厳死に反対する人たちは、そうした人々にも尊厳があり、人間性があると言います。
ただ、私は話がずれていると感じます。
というのは、人間の死は肉体的な要因のみに限らないからです。
例えば自分にとっての絶対的な存在―神―を欺いて生きるのと、それに忠実に死ぬ二択なら、後者を選ぶことで人が真に生きられるという考え方を持つ人々がいます(私にも理解できます)。
止めるつもりはありませんが、人間は弱く脆い存在だから神を憎しみ欺き、ときに見棄てますし、それは責めることでも責められることでもありません。神を見棄て生きる人間もまた、信仰を持つ人間と何一つ変わりません。
けれど三島は自責した(と私は思うのです)。彼の中にある神を見棄てた自身を。
問題はその神を三島自身が正確に捉えきれていないことです。「天皇」は(少なくとも大日本帝国におけいては)現実の利害関係によって捏造された偽の神ですし、本作の「若さ」も、当然神でも何でもありません。
後期の三島作品には、宗教性とも呼びたいものが備わってきます。ポーズとしての皮肉や都会風の心理主義の背後に、生身の人間の切羽詰まった息づかいが聞こえます。
けれど結局三島由紀夫は己の「絶対者」を見いだし得なかった(日本という国そのものが神についてきちんと問うことのない国でしたから、止むを得ない点はありました)。
例えば本作をこう改作すれば、少し分かりやすいかも知れないです。
富岡は天皇という宗教を信じ、しかし敗戦に伴い信仰を棄て天皇なしでも豊かに暮らしている。
けれどある夜、富岡は若かりし頃の天皇が血塗れになり孔雀を殺めている現場を見てしまう。
孔雀という「美」―ひいては他の鳥とは替えの利かない「絶対」―を醜く血塗れにし、天皇という神は無様に老いながら―富岡自身も同じく―生き続けている。
人間の死が、肉体的な諸条件で決まるなら、あるいは「人間性」という便利で曖昧な言葉で包んで済むなら、我々はこんなに苦しまない、と私は思います。
むしろ、人間は多様な形で死んでいく。自らの信じた何かを棄て幽霊や影法師となってなお生き続ける。
「孔雀」という短編はそうした「神抜きで生きる人間の果てしない絶望」を示す作品ではないでしょうか。
(以下は私記です)私なら、阿弥陀仏の本願に出逢うことなく生きていたら、こうした生だったかもしれないと思います。
好物の豚タンが半額で喜んだり、逆に突然理不尽な暴力に出くわして苦しんだり、私は日々生きています。
でも、その生はいわば仮設住宅のようなものです。ひとまず建ってはいるけれど、いつ壊されるかも分からないし、心からの安堵もない。目先の出来事ではしゃぎ、落ち込み、怯え、憎しむ―それだけです。
念仏を唱えるとき、私はきちんと生きていると感じます。普段の仮設住宅の生き方ではなく、確かな居場所にいると実感する。
この世に本当の意味で自分の居場所がある人間など、(私は過度に悲観的かもしれませんが)きっとほとんどいない。
誰も彼もが仮設住宅のような間に合わせの生のなかで、明日に怯えて生きている。
そうした私たちが今日一日を安心して生きるために、自らの確かな居場所を見出すために、真の絶対者は必要なのです。
日本(だけでなく先進諸国)はこれまで、神を社会から切り離してきました。そして宗教は私たちから縁遠いものとして煙たがられてきた。
けれど、人間は神抜きでは生きることができない。仮設住宅しかない国を思ってください。その国で人が本当に安心を得ることはない。
宗教や神という言葉は仰々しいものですが、仮の生き方を続ける私たちが怯えずに眠り、怯えずに生きるためにある、大きな避難所のようなものだと思ってほしいのです。
三島由紀夫の作品を私がこれだけ読むのも、彼の作品には夏目漱石の作品同様に、絶対者・超越性を希求する魂の働きが記録されているからです。