『デューン砂の惑星PART2』/主人公の立ち位置が変わり過ぎじゃないか問題(映画感想文)
『デューン砂の惑星PART2』(24)はなんとも奇妙な映画だ。
この一作だけを観ればしっかり完成した作品としてみえるのだが、21年に公開された『DUNE/デューン砂の惑星』と続けて(当然だが「続き」として)みたときに、二作の間の価値観のズレが気になる。
SNSで散見される「なんとものりきれない」という違和感の表明はこのあたりにあるのでは?
主人公ポールは領主アトレイデス公爵家の長男で後継者。この公爵が、全宇宙を支配する皇帝シャッダム4世から惑星アラキスの管理権を委ねられたところから『砂の惑星』の物語は始まる。アラキスは全土に無限の砂漠が広がる過酷な土地で、砂のなかには巨大で危険なサンドワームが生息している。だが、このアラキスでのみ採取できるスパイスは、寿命を延ばし、超人的な思考力を人にもたらし、尚且つ超高速の航行を実現することができるのだ。この委任、実はアトレイデス家と対立する宿敵ハルコネン家と皇帝とが、アトレイデス家を滅ぼすための画策の一環だった。アラキスに赴任した公爵と臣下たちは、ハルコネン男爵の謀略で命を落とす。逃げ延びたポールと母であり公爵の愛妾であったレディ・ジェシカは砂漠に逃げ延び、そこで砂漠の民フレメンの部族と出会う。ポールは、フレメンの力を借りハルコネンに復讐を開始する、…。
というのが映画一作目で描かれた物語。大変判りやすい構造を持っていることが判る。
敵対する二つの名家、皇帝の陰謀、逃げ延びる王族の息子。砂漠に住まう蛮族の力を借りた復讐譚。同じ構造を持った小説やマンガや映画はいくらもあるが、フランク・ハーバートが原作となる『砂の惑星』を書いたのが65年なので、これこそが原点なのかも。(マイクル・ムアコックのエルリックサーガ1作目にあたる作品は61年だった)
21年の映画のクライマックス前に、ポールがフレメンの部族長スティルガーに理解を求め協力を得る場面がある。それは、その他の類型作品同様、主人公が信用を勝ち得るために対立相手と行う「力の勝負」であり、格闘だった。公爵の息子であるポールは後継者としての必然から剣術の訓練も積んでいる。ポールに不信を持つフレメンの男ジャミスと戦い、彼を打ち負かしたことでポールはスティルガーの信用を勝ち得る。ここまでは新たに降りかかる事件として物語のなかで進行し、観客も(既視感はあれ)ポールと同じ立場でドキドキしながら困難を乗り越えていく様を見る。
だが3年を経て公開された『PART2』ではどうか。その構造が、ややブレる。
前作ではハルコネンに復讐を誓い、逆境から反撃を行う筈だったポールが、今作においてはフレメンの伝説的な救世主(宗教的指導者)ムアディブではないか、ということになっている。ポールの立ち位置が、スポットの当たり方が変わっている。
前作においてポールの力を認めたスティルガーだが、フレメンのなかにいくつか種族があり、けっして思想的に一枚岩ではない。いつか砂漠の民を救う救世主が降臨する、という伝説を信用しているスティルガーを「非現実的な夢想家だ。われわれは目の前の困難に対処するべき」と嘲笑する部族もある。
結局『PART2』の物語では、ジェシカの勧めによりあるイニシェーションを受けたポールが特異な能力を発揮し、指導者として認められるようになるのだが、…。
これでは話が違い過ぎる。
観客が(少なくともハーバートの原作と切り離し映画的カタルシスを待ち望んだ僕が)期待したのは、高貴な血を引きながらも策謀に陥れられた青年が、生身の人間として集団に認められ、信頼を力に立ち上がる姿ではなかったか。
というのも、この外部からやってきた「よそ者」が高次元の威光を見せつけ、虐げられている(この場合は過酷な環境で生きることを余儀なくされている)人々を救い、尚且つここが問題なのだが、大きな戦闘へ導いていくという展開が現代においては大変危険だと思うからだ。
この問題は日本ではほとんど指摘されていないみたいだが、海外においては進行中のパレスチナの問題を想起する若者が多い、とニュースになる程度には物議をかもしている。世界の事情に疎い僕としては、この構造に違和感を覚えるばかりだというにとどめたい。だが、あまりにもご都合主義過ぎないだろうか。
監督ドウニ・ヴィルヌーヴは原作の大変なファンらしく、どうあってもこの作品を映画化したかった。だがハーバートの原作に透けて見える植民地支配的な思想も彼は十分理解していた。現代の世界事情や価値観に合わせ、彼なりに工夫を施し作品をアップデイトしようとしているのはよく判る。だがそれでも、戦闘には何らかの動機と構造とが求められ、どうあっても現代の危険な何かに触れざるを得ない。観客が想起することを止めることはできないのだ。
もちろん、ある種のものの見方が映画に限らず多くの創作物を窮屈にしている現状に反対の立場をとってきた僕なので、「戦闘状態の地域があるかぎりは類似した争いを映画で描くのは非道徳的だ」と莫迦なことをいうつもりはない。映画は映画であり、ときにそれが批判的立場で現実を暗喩として示す場合があるとしても、原則それらは切り離し純粋に楽しむべきものだと思っている。
指摘したいのは、ヴィルヌーヴが苦心してアップデイトした過程で発生した、この二作の間のねじれの違和感だ。思想が云々という以前に、物語としての整合性がとれていないのではないか。
その姿に自分を重ねてみることができた子どもの頃はよかったが、さすがに大人になってしまうと、「実はヒーローでした」といった物語には幼稚さを感じてしまう。
欧米と日本とでヒーロー像に大きな差があることも一応知っている。正体が異星人のスーパーマンに代表されるように、本当は大金持ちで進化した秘密兵器を用いる、実験の失敗で突然アメージングな特殊能力を身につけてしまう、など欧米のヒーローの多くは「実は常人とは違う」のだが、日本では等身大の主人公が苦心して能力を身につける展開が多い。日本のマンガが海外で支持される要素のひとつなのだとか。身近な主人公で共感できる、と外国人がインタビューで答えるのは何度か見たが、「自分とヒーローはあきらかに別物」と考えている欧米人に対し、日本人は「努力すれば自分もなれる」と考えている節がある、という見方もできる。
その特殊な位置づけの主人公が突然現れヴィランを倒す展開ならいいとして、それが人々を戦争へ導いくというのはどうなのか、…。ハルコネンの一族がいくらヴィラン面の狂気の人々として描かれていても、フレメンたちに虐げられている感があるとしても。
『砂の惑星』二部作は、スケール感といい、説得力のある絵作りといい、そしてヴィルヌーヴらしい洗練された美しさもあって映画のよさを堪能できた。風景から余計なものを削ぎ落し、最後に残った広大さや巨大さ、ただの「無さ」を提示してこそ大スクリーンで観る価値のあるものを作れる、とでも信じているように。
(好みはさておき)現代、最高の映像を作り出す映画作家はクリストファー・ノーランだと思うが、ヴィルヌーヴはそれとは違う方向にむかい、力強さはノーランに匹敵する。
先に英雄譚云々と異議を唱えはしたものの、『砂の惑星』の美しさは否定できない。やはり、もう一作新たな地位を築いたポールがどう大領軍にたちむかうのかをスクリーンで観てみたい。本当なら物語はさらに次の世代へ移り、救世主としてのポールも次のヒーローに交代するのだろうが。