『アイアンクロー』/ただ人生がそこにある(だけ)(映画感想文)
『アイアンクロー』(24)で描かれるのは、実在するプロレス一家だ。
父親は1960から70年代に活躍した伝説的プロレスラーのフリッツ・フォン・エリック。長男は幼くして亡くなったが、彼にはいまも4人の息子がいる(実際にはもうひとりいるのだが映画では構成上の変更が加えられて4人で描かれる)。
チャンピオンになった輝かしい経歴ももつフリッツは、いまは引退して自分が主催する団体と興行の場を持っている。息子たちはそれぞれ成長し、次男のケビンを筆頭にみんな優れたアスリートとなっていた。どの息子も家族思いで、兄弟はリスペクトしながらたがいを大切に思っている。家族を守るために強くあり続けた父を中心にすばらしいファミリーを形成している。だが、……。
実在のこの家族は「呪われた一家」と呼ばれている。
成功するかと思いきや必ず不幸が訪れ、ときには誰かを連れ去ってしまう。1979年にフリッツが癌でこの世を去ったとき、残っていたのは次男のケビンただひとりだった。
映画は、しかしこの不幸をドラマティックな試練といった描き方をしていない(…と僕は思ったのだが。もしかして違うのか?)。
彼らのもとに不幸が訪れても、恐れながらただ生き続け、家族として在り続ける。
『アイアンクロー』はなかなか不思議な味わいの映画だ。
プロレスを生業とする一家で家長がプロレス至上主義者ゆえ、映画全体をプロレスが支配しているかというとそうではない。映画の中心をつらぬくのは「家族」という形だ。だが、だからといってベタベタの家族映画でもないのだ。
観ながら感じていたのは、ただ彼らはそこにいて、そしてただ家族というつながりを疑いも裏切りもせずに、当然のものとして(あたかも空気のように)捉えているということ。家族だからこそいっしょにいて、家族だからこそ助け合い、家族だからこそ誰かの頼みも引き受ける。葛藤も疑問もない。しかしそこへ何の前触れも誰かの悪意といった判りやすい仕掛けもなく、不幸がやってくる。ドラマ的作劇の操作もねらいもない。
自分はいったい何を見ているのだろうかと思う。
この映画はどうなっていくのだろうか。どんなクライマックスへ観客を導き、そこにはどんなカタルシスが用意されているのだろうか? 予測がまったくつかない。
だって本当の人生にはそんな予兆や判りやすい仕掛けは存在しないんだもの。
監督がそうねらって作っているとしか途中から思えなくなってくる。
この映画はただ「人生」を描いているのだ。実際にわれわれが生きる世界を。
観ながら当然多くの人がそうであるように、僕も「塞翁が馬」という言葉を思い出し、「禍福はあざなえる縄のごとし」と心のなかでつぶやいた。そういった人生の山あり谷ありを描いた映画は他にもある。登場人物はそこで葛藤し、試練として受け止め、乗り越えようと抗うのが常道だ。
だが『アイアンクロー』に登場する仲のよい優れた息子たちは、そうはしない。スクリーンのこちら側にいる多くの人々がそうするにように(ドラマの登場人物のようにではなく)ただ受け止める。受け止めることしかできないんだもの。ヒーローのように抗い乗り越え、栄光を掴むというプロセスを映画は描かない。
観終わって僕は、本当の「人間」ってこうだよな、と考えた。熱烈に何かを目指し勝ち取るということが、ないとは思わないが、それとは関係なく世界はそこにある。
描かれた兄弟たちはその意味ではめずらしくも「生身の人間」だった。
マッツ・ミケルセンを僕は映画のなかの「理想的人間」、「真善美の体現者」だと思っているが『アイアンクロー』に登場するのはそれとは違って、本当の「ただの人間」だ。不幸にも見舞われる。それを乗り越えるべくスーパーパワーを発揮したりはしない。そしてふと、自分もそうなのだ、と思う。(不幸に見舞われる、という意味ではなく)こうして説明のしようのない大きな、ときには理不尽でときにはラッキーな力に遭遇し、それをただ受け止め、喜んだり悲しんだりするのだと。ただ、こういう気持ちになる映画を僕は他に知らない。