『ヒストリー・オブ・バイオレンス』/生身の人の裏側(映画感想文)
『アンブレイカブル』(00)や『光の旅人K-PAX』(01)に登場するちょっと変わった人たちは、僕らが子どもの頃から観てきたウルトラマンと同じだ。見た目はただの人でも中身は人智を越えた力を擁する何者かである。地球人以上の特殊な能力を持つ宇宙人とか。『K-PAX』が興味深いのは、ダンが「ウルトラセブンは僕なんだ、アンヌ」と覚悟を決めて告白したら「ダン。あなたやっぱり頭がおかしかったのね」と本気でいってしまうということを、まじめに作品にしている点だ。物語をリアルに描けば、当然そうなる。
一見普通の、市井の人物にしか見えないそれこそ冴えないオッサンのなかに実はすごい能力が隠されている、というヒーローの系譜は別に日本だけの専売特許ではなく、アメコミにも多く存在するが、大人の楽しむ時代劇にもこの桜吹雪のパターンが応用されているところを(それも多数!)見ると、日本人は相当に「表と違う隠された真性」に憧れを抱いているのだろう。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(05)を観た。
初めて観たときに抱いた「これってウルトラマンやんけ」という感想は今回もやはりブレなかった。ヴィゴ・モーテンセン演じるトムは冴えないオッサンではなく善良でやや気の弱い市民だが、そのなかに隠れているのは「人を殺すのが上手い」という特性である。
冒頭から不穏な空気全開で映画は幕を開ける。始まってからの数分はクローネンバーグ、フルスロットルだ。
主人公のトムは前述したように「人を殺すのが上手い」のだが、それが最初に描かれる場面では人体が暴力的に破壊される様がかなりリアルに描写される(これでもカットしたんだ、とクローネンバーグはいっているが。実はもっと細かな破壊のカットがあるそうだ。)が、それはテーマに必要だからだ、とのこと。
「正義の味方が暴力で悪い奴を退治したその結果であっても、悪人が血を吐きながら痙攣して死んでいく様を見せないのは無責任だ」と監督はいう。
ヴィゴ・モーテンセン演じる主人公は、かつて「暴力」に塗れた生活をしていたがその「暴力」の世界から逃れるようとそれまでの自分を捨て、小市民的生活にたどり着いた。そんな男が、再び「暴力」の世界から伸びてきた過去の手に家族を脅かされる様が描かれる。決着の付け方はやはり「暴力」だった、というところが映画のテーマだ。
人を守ったり、邪悪な何かに立ち向かうには、われわれは最終的に「暴力」という手段しか選べないのだろうか?
この映画が公開されたときには、最後に「暴力」から帰還する主人公と、それを受け入れながらもぎこちなさの拭えない家族の姿が、戦場から帰ってきた兵士を受け入れる家族に似ている、という議論があった。トムはアメリカの象徴なのだろうか? それに対するクローネンバーグの解答は「『暴力』に守られているからといって、『暴力』を受け入れるべきなのか」というもので、それは「われわれの世界はそれを切り離して生きられるものではない。しかしそれについて考え続けろ」というメッセージでもある。
今回は観ている間、『ダーティハリー』(71)についても考えていた。
クリント・イーストウッド演じる刑事に対する世間のイメージは「法で裁けぬ悪党を暴力の力で裁く私刑行使者」だと思うが、実はこのシリーズ、『2』(73)を観るとその構造がガラリと変わる。『2』でハリーが対峙する敵は、法で裁けぬ悪党たちを殺す私刑集団なのだ。次々と大物悪党たちを殺していく自称・正義派の連中は、仲間になれとハリーを誘う。ハリーはそれに対し、「お前たちがやっていることは法を無視した、私刑だ」といって拒む。
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」とは、「暴力の歴史」ではなく、「暴力事件を犯した過去がある」という意味の英語的言い回しでもある。このタイトル、観終わったあとにふと周囲(や人によっては自分)を省みて、なかなか刺さる。