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『ジョーカー』/孤独を何とかしなくちゃ、…!(映画感想文)

続編『ジョーカー/フォリ・ア・ドゥ』の公開を控えてリバイバル上映していた『ジョーカー』(19)を観に行く。今回は直前にスコセッシ監督の『タクシードライバー』(76)で予習もした。
ずいぶん昔の思い出話になるが『タクシードライバー』を最初に観たのは大学2回生の春だった。
時期をなぜ覚えているのかといえば2回生で履修したある授業の教授(文芸学科の教授だが映画好きで知られていた、…というのを後で知った)が初回の授業で「次回までに観ておくこと」と課題を出したのがきっかけだからだ。どれだけ自分が不真面目な学生だったかの証拠となる挿話なのだが、何の授業だったかは覚えていない。教授のことはいまでも印象に残っているし、言動のいくつかも頭の中にある。同じ寮にいた優れた映画オタクのKに訊くとビデオを持っているというので、Kの部屋で観せて貰った。当時は配信も、芸大なのに近隣にレンタルビデオショップもなく、なんと僕はビデオデッキも持っていなかった。
そこで観た『タクシードライバー』はただ暗い、暴力的なだけの映画だった。ベトナム帰りの男がおかしくなってニセの大義名分を背負いただ人を殺してリビドーを爆発させる映画、だと思った。なぜこの映画を教授が観ろといったのかも理解出来なかった。
現代のアメリカ文化がベトナムで傷ついた者たちを抜きに語れない、その時代を経ていまが成立している、ということが言いたかったのだろうか?

ウィキペディアではデ・ニーロ演じる主人公のことが「ベトナム戦争帰りの元海兵隊員と称するトラビスは、戦争による深刻な不眠症をわずらっているため定職に就くこともままならず」と紹介され、その項は「(マンハッタンの)麻薬と性欲に溺れる若者たちや盛り場の退廃ぶりに嫌悪を示していた」と続く。最初に映画を観たとき、ベトナムで精神を別の方向へ向けられてしまった男の物語だ、と僕は思ったし教授の意図もそこにあるのかと考えたが、本当は違う。
映画の冒頭、訪れたトラビスが社長らしき人物と交わすやりとりで、最初は社交性を欠き、世間知らず(「ムーンライトで?」と訊ねられてトラビスはその意味が判らない。それは「副業」を表す俗語だった。そんなことも知らない男として描かれている)のトラビスを社長は訝しがるが、彼が元海兵隊だと知ると「おれもだ」と気さくにいって雇用を決める。
もし映画が、ベトナム帰還兵の病んだ精神を描きたかったのなら、この短いやりとりは明らかに不要
『タクシードライバー』はベトナムの傷を描こうとはしていない。
それもその筈。映画の脚本を書いたポール・シュレイダーが、インスピレーションを得た一冊の本がある。書いたのはアーサー・ブレマー。作家ではない。アラバマ州知事だったジョージ・ウォーレンを至近距離から五発銃撃し、半身不随にした本物の暗殺未遂犯なのだ。事件後そのブレマーの日記が『暗殺者の日記』として刊行され、それを読んだシュレイダーは脚本を書き上げる。
事件時ブレマーは22歳。脚本を書いたシュレイダーは26歳。
ブレマーは平均的なアメリカの青年だったが性格がやや内向的でもちろんガールフレンドはいない。21歳で家を出てアルバイトを転々とする。高校で用務員の職を得、そこで出会った15歳の少女と人生初のデートをするが、ポルノ映画館に連れて行きフラれてしまう。それでも彼女につきまとい警察を呼ばれる始末だ。

友達のいないブレマーには憧れる存在があった。それは68年にロバート・ケネディを暗殺したサーハンなる人物で、アラブ人でありながら子どもの頃に難民としてアメリカへ連れて来られたのだった。貧しかったこともあり孤独な少年期・青年期を送っている。孤独な点はブレマーと似ているが、サーハンがケネディを暗殺したのには社会に対して恨みをはらす、といった動機があったのに比べ、ブレマーにはない。彼はただ「全世界に向けて男らしさを証明したい」といった理由で、知名度の高い要人暗殺を企てたに過ぎず、結果として撃たれたのはアラバマ州知事だが、このとき実は「ニクソン大統領か州知事」となんともアバウトな二者択一で狙撃目標を挙げている。
ブレマーに従軍経験はない。

トラビスはなぜ、銃を手に入れ、それを使おうとしたのだろう。
ベトナムで精神を病んだのでないとすれば、シュレイダーが脚本に書いた動機は「孤独」しかない。元ネタとなったブレマーもそうだ。誰にも理解されない、という想いが自分を誰かに理解させてやるというモチベーションとなる。くわえてトラビスには正義感があった。タクシーの運転席から乱れた若者たちの風俗を見て、若者だけでなく金持ちの大人たちが後部の客席で繰り広げる痴態を見て、この街は間違っている。浄化しなければならないと考える。
最初は違った。
最初にトラビスが殺そうとしたのは次期大統領候補のパランタインだが、トラビスの認識では彼は汚れた大人ではない(このことからトラビスの浄化に対する目論見が、必然でなかったと僕は思う)。
その後トラビスが、街のワルから売春を強要されている少女アイリスを救おうと考えるのは、そのパランタインの狙撃に失敗し、暗殺未遂犯行して追われることになったと知ったトラビスが「自分はいいことをしている」と咄嗟に考えて行った代償行為のようだと僕は思う。「おれは上院議員を暗殺しようと企てた悪いヤツではないですよ」という子どもじみた詭弁だと。あるいは、アイリスを救い出し、いっしょに逃げようとしたのかもしれない。
いかにも中二病的な、成熟しない思考ではないか。
やはりベトナムは関係ない。

『ジョーカー』公開当時、なぜか『タクシードライバー』と類似を探る言説が多かったのだが、監督のトッド・フィリップスはそれよりも『キング・オブ・コメディ』(82)と繋がりがあると語っている。デ・ニーロを名司会者として『ジョーカー』に起用した理由もそこだというのだ。
では『ジョーカー』は『タクシードライバー』と通じる点はないのか。
トラビスもアーサーも、ともに社会から受け入れられず心に孤独を宿して人を撃ち殺している。だが結果としてそれを他者(トラビスはアイリスの家族が、アーサーは多くの人が)が認める。それまでは誰も自分のことに、賞賛どころか目をくれてもいなかったのに。神の視点で語れば、二人が心から「美しく崇高な正義」を履行しようとしたのでないことは判る。トラビスは先に書いたように代替行為だ(と僕は思う)し、いってみれば暴走していった先に手頃なワルいやつがいただけだ。アーサーにしてみても自衛半分、この街で成功して余裕のあるヤングエグゼクティヴに対する(自分でも意識していなかった)やっかみが、やはり暴走した結果引鉄を絞ってしまったに違いない。
だがサイズの違いはあれ、どちらもただ孤独に裏打ちされて放った銃弾が他者により賞賛されてしまった。
この点が二つの映画に共通する恐ろしさだ。
だが、加えていえば『タクシードライバー』で売春の元締めを殺したトラビスを賞賛したのはアイリスの家族だ。それは判る。見当外れの虐殺だったが、結局それは善行だった。だがアーサーの殺した相手はどうか? 殺されなければならなかったのか。ヤンエグたちに絡まれていた女性は別の車輛へ去っている。彼らをホームまで追いかけ、逃げようとする背中から撃つのはあきらかにやり過ぎだ。しかも、アーサーはそれが市民に支持されていると知り、助長し、より別の何者かへ変わっていく
公開時に見て考えたのは、無責任で無分別なメディアがそうして間違った悪い行為を褒めそやし、誤った正当性を認め、より過激化させることの怖さだった。それだけ人が心を、というか善悪の判断や是非についての検討が出来なくなっている。ただおもしろければいい。人間の価値判断の退化や心の荒み具合を映画は指摘し、そしてそれが現実と重なっている恐ろしさだった。

それは今回観てもやはり変わらなかった。そして数年しか経ていないのに、人びとはより貧しく、分断を強めている。ますますジョーカーの思うつぼだ。曖昧模糊として捉えどころのない邪悪な化身の降臨を防ぐには、人びとが豊かになり心に余裕ができ、ちょっと真面目に真理や善について考えてみようか、といえるようになるのがいちばんいいのだが、それは難しそうだ。であれば孤独をどうにかしていくのが先か。
仙人やマンガに出てくる大文豪のように、覚悟して目的ありきの自主的選択孤独ならいいのだ。頑固な変わり者なのでそっと遠くから見守っていてやれば。問題は、思春期からずっと寂しいケースだ。かつては不器用な本人に非があるといえたのだが、いまは違う。孤独を感じる者も当然、社交術には長けていないが、実は周りにいる一見たのしそうにワイワイ賑わっている連中も、本当は社交のスキルなど持っていない。ただちょっと他人と共通の話題を持っているか、他人から見て「付き合っていると得かな」と思わせる小ネタを持っているだけで、ちやほやされて、自分は顔が広いと勘違いする者も少なくない。もしそういった人物が本当に人間関係の形成に長けているなら、他者を孤立させるような状況を看過する筈はないのだから。ただ狭い薄っぺらなグループのなかで、上手くやっているように見せているだけだ。
誰もが孤独なのだ。でなければこれほどSNSで無意味な主張を多くの人がする訳がない。本心と異なり外聞だけを気にした言説を吐く筈がない。本心など、あったことさえ本人も忘れてしまっている。
そういった孤独が進化し凶悪な行為をはたらく可能性を70年代に描いた『タクシードライバー』は先見の明がある? いや、そうではなく実際に目の前にもうすでにそういった社会があり、そしてそこから世界はより孤独化しているのだ。インターネットは、身の回りの孤独が「どこか遠くにいる人と繋がっているかもしれない」と思わせ現実逃避をさせるのに一役買った。だがそれだけ。
そして時を経て『ジョーカー』は、その「他人に受け入れられる自分」をメディア上で演じる人がやがて辿り着くべき狂気を描いている。うわべだけを見せる世界では、悲しいことがあっても笑わなければならないのだ。

続編の公開を前にしてリバイバル上映された『ジョーカー』をひさしぶりに観たが、以前はそのテーマの怖さに目が眩み、判っていなかったことがいくつかあった。
今回観直して気付いたのは映画としての強度の素晴らしさだった。小手先の気を惹く挿話や仕掛けはなく、ただ映画として力強い、演出もストレート。絵作りに衒いもない(カッコいい絵はいくつもある)。こりゃ映画史に残るわけだ、とあらためて思った次第。
もうひとつ、蛇足ながら。
私事で恐縮なんだけど春先に新人賞の贈賞式用に妻から革靴をプレゼントしてもらった。滅多に見ない、ちょっと変わったカラーリングで大変気に入っている。
『ジョーカー』の冒頭でアーサーが悪ガキたちに「閉店セール」の看板を奪われシーンを覚えてられる方も多いと思うが、あそこで子どものひとりが、「その靴!」といって笑うのだ。変な靴だと。その後スクリーンに映った靴を見て愕然とした。なんと、アーサーが履いていたのは、僕が妻から贈られたのとまったく同じ、青と赤の二色の革靴だったのだ、…。以来、そのわが家でいちばんいい上等の靴は「ジョーカーの靴」と呼ばれている、…。

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