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『ミッション・インポッシブル2』/トムならきっと、何でもやりとげちゃう(映画感想文)

『ミッション:インポッシブル2』(00)を観た当時こう思った。「いったいこのシリーズはどこにいくのだろうか」。
前作は96年、監督はブライアン・デ・パルマ。そして脚本には『2』でも続投を果たすロバート・タウンと、もうひとり、デビッド・コープが名を連ねていた。裏切と騙し合いの映画だった。
『2』はジョン・ウーが監督(それだけでも「!」だが)。疑心暗鬼に駆られ誰も信じられなくなったネクラな工作員イーサン・ハントは、『2』でまるで全身の血液をAからBに入れ替えでもしたかのようにポジティヴで「無理なことなどないっすよ!」と輝く白い歯を見せ素敵に微笑むナイスガイに変わっている。全編変装した別人だったのだろうか。いや、クルーズの望む方向性がこれだったのだろう。イーサン・ハントと「スパイ大作戦」という器を借り一作ごとに異なるテイストの映画にする。監督の選択を見ればそれは判る。この『2』は監督ありきで企画が始まった筈。「次はジョン・ウーのテイストでいこう!!」がクルーズを筆頭とする製作チームの意向だったのだ。

世界を滅亡に追い込むウイルステロ、仲間たちとの荒唐無稽な奪取劇、全体のバランスが崩れることも気にせずにひたすらアクションに没頭する後半の展開。これが続編であることなど誰も気にしていない。別物だ、…という思いは以降何度となく観直したが揺らがなかった。
ただ今回、意外にも脚本には説得力が持ち込まれ、ここで築かれたスタイルが結局その後も(特に11年の『ゴースト・プロトコル』からはより強固にそれが強調されていく)残ったというのは発見だった。スパイというフォーマットに相応しい暗さを持った第一作、アクションに走り過ぎカッコよさを追及した(だけ)の『2』、その二作との差異化に腐心し過ぎた『3』(06)ときて、結局4作目以降は『2』の焼き直しに過ぎないのでは?

前作に続き『ミッション:インポッシブル2』に参加したロバート・タウンは『ゴッドファーザー』(72。クレジットはなし)や『チャイナタウン』(74)を手掛け、クルーズとは『デイズ・オブ・サンダー』(90)、『ザ・ファーム/法律事務所』(93)で仕事をしている。
古いアメリカの裏社会を描ける筆致の人物という印象。もしかするとクルーズは、ヨーロッパの歴史ある都市を舞台とした前作との差異化をアメリカを舞台にする(あるいはテイストをアメリカ的なものにする)ことで図ろうとしたのかも。そのねらいは悪くない。
巨大バジェットの作品らしく原案にも他スタッフが名を連ね、ヒロインのオーディションにも脚本家は参加。多くのアイデアが出ては取捨選択され、物語はいびつだが個性的な枝葉を刈り取られ洗練という名の凡庸化を図られていく。結局そこで残ったのが「イーサンが幾重の障害を乗り越え何かを盗む」と「敵と一騎打ち」だったのでは? その観点でみれば、以降のシリーズ作品がそこから脱しきれていないことがよく判る。防犯装置がいくら複雑になりミッションが困難になっても、結局は見せ方の問題だけなのだ。人工的な瀑布に守られた水中の金庫室であれ前人未踏の高さを誇る高層ビルであれ、結局物語がどれほどの説得力を持つか、われわれ観客がイーサンに共感できるかが重要な映画成否の鍵なのに。

ジョン・ウーの相変わらずの美学が炸裂する『2』だが、ウイルスを盗みに侵入する経緯にも終盤の一騎打ちに繋がるアクションの過剰な横溢にも見事に説得力があった。すべてロバート・タウンひとりの手柄だとは思わない。このとき何かが、ジョン・ウーという「常軌を逸したカッコよさへのこだわり」を持つ監督のもとで見事な化学反応を見せたのだろう。トム・クルーズというアイコンがいたからだと僕は思っている。誰もがクルーズに惹かれてリミッターを外した。それが上手く調和した。そうさせる魔法にも似た力がこのときのクルーズにはあったのだ。
やり過ぎるとダサくなる演出も、臭過ぎて鼻白む科白でも「彼ならカッコよくやりとげてくれる」というマジックのようなものが。

『トップガン』(86)がある世代の青春の象徴だといわれ、そして36年ぶりといわれる続編『トップガン マーヴェリック』が大ヒットしているなかでも、僕は少しも惹かれず(こんなにクルーズが好きなのに!)、結局『マーヴェリック』は未見。頑なになっているわけではなく、「観るかもなぁ」くらいに思っていたのだが。
以前に書いたことだが(『トップガン』の)一作目の脚本に信用がならないのだ。なぜ彼は周囲に一目置かれるのか。別に映画のロマンス(ファーストシーンと最後のカットが出会うまでのロマンスだ。そのなかで何かが変わるのが映画、という言説)を意地になって信奉しているわけではない。
しかし『M:I』シリーズにおいては、『2』でイーサンがみせる行動には少しの隙も違和感もなかった。きっとこうするだろうと思っているとおりにカッコいいイーサン・ハントはそう行動し、そして予想をはるかに超える洗練された手管で困難なミッションを成功させていく。ここまではよかった。
シリーズはこのあと、イーサンのカッコよさをただ見せるためだけに、ろくな説得力を持たないくだらない設定や子ども騙しの説明がなされるようになる(別にブルジュ・ハリファの外壁にぶらさがらなくても、解決できたやんけ! とつっこんだところで僕の『M:I』は終わった。いやその前にクレムリンで、…。ピクサーのマンガアニメやろ! と鼻白んだときか)。
この時点(『2』)においてはそんな枝葉末節の内輪受けはまだ見当たらない。誰も彼もが潔い。『トップガン』とは比べ物にならないくらいちゃんと誠意をもって映画が作られている。観客を驚かせようと大人たちが本気で子ども心を発揮している。象徴的な映画。

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