『シビル・ウォー/アメリカ最後の日』/法が瓦解した世界の恐ろしさ(映画感想文)
戦争にはもちろん反対だ。現実の問題として国ごとに領地の地理的条件や貧富や軍事力の格差、さらに歴史上の事情があっても、他国に攻め込むなどしてはならない。理性をはたらかせるべきだ。すべての為政者に思いやりがある等とお気楽に思っちゃいないが、越えてはならない一線がある。
だがそういいながらも、理不尽に攻めて来る横暴な他国にはどう対処するべきか、と問われれば軍事的に対抗せざるを得ない、というのが残念ながら僕の思考の限界だ。「もし暴力をふるわれ清明が脅かされる危険が迫ればどうするか。相手に理屈の通じない狂人だぞ」と問われれば、暴力許すまじ、それは絶対に行使してはならない、といっているのと同じ口で「暴力で対抗するしかない、…よな」と唸るように僕も答えることしかできないだろう。
そうして消極的か能動的かはさておき、戦争が始まる。
政治を行う人に求められる資質とは「どうあっても戦争を回避する」力ではないのだろうか。
「たとえ誰であれ、人を死なせない能力」でもいい。自国だけでなく。人を死なせない、なんて本当はひどく当たり前のことであるのに、国や文化(や宗教、民族)が違うとなるとその心的ハードルを易々と人は飛び越えるものらしい。
厄介なのはいつ頃からかポピュリズムや自国ファースト主義が台頭したことだ。国政を行う政党が「〇〇ファースト」を謳うというのは冗談にしては悪質で、教養以前の想像力が欠けているとしか思えないが、つまるところはファシズムの再来だ。
『シビル・ウォー/アメリカ最後の日』(24)の監督アレックス・ガーランドは作品のモチベーションとして、
「過激派の政治家とポピュリストの政治家が台頭した先にある未来を描いた」
とインタヴューで発言している。
「テキサス州とカリフォルニア州が組むという設定は、ファシストに対抗するためなら共和党と民主党が合意できるんじゃないかと思ったからだ。合衆国憲法を解体し、法による支配をないがしろにし、自国民を攻撃する、――そういったファシストの存在は右派・左派の政治思想の不一致よりもずっと深刻で、共闘して立ち向かう必要がある」
と。『シビル・ウォー』が描くのは、人気取りを優先してルールを曲げたポピュリズム政治の狂った未来像だ。
だが、ガーランドよ。われわれが共闘して立ち向かうということは、非ファシストとファシストたちが戦うことを意味するのではないか。であれば、やはり世界は内戦状態に陥るだろう。戦争を容認する派と戦争を絶対に許さない派とがたがいの意見を主張して、…その決着をどうつける? 禅問答だ。
ひとりの人間に権力が集中し独裁者となることを防ぐという民主主義の原則に基づき、合衆国では憲法修正第22条で大統領の任期はどれだけ優れた人物で支持を集めようが「一期4年を2期まで」と定められている。権力の長期化で腐敗することを防ぐためだ。
国の権力は国民から委託されるもので個人が私有するものではない。トップが常に入れ替わるシステムを維持することは、権力が互いを抑制する三権分立と並び民主主義国家にとっては不可欠だ。そう聞けば、ハッとする日本国民も少なくないだろう。
『シビル・ウォー』では物語が始まってはやい時点で、大統領が「3年目の任期を迎えていること」「FBIを解体したこと」が情報として会話のなかで語られる。
いきなりミサイルが飛んで来たり、兵隊が攻め込んで来たりはしない。同じ国内のどこかで激しい内戦が行われているに違いないのだが、主要人物たちはホテルのロビーで仕事の今後について語り合っている。平時と何ら変わりない。だがロビーは僅かに薄暗く、エレベーターを使おうとするとフロントのホテルマンに「停電になるとエレベーターも止まります。階段で上がられることをお勧めします」といわれる。
目に見えるかぎりは何も起こっていないが、どこかで何かが起こっている気配だけが感じられる始まり方だ。
思えば、有事とはこうして始まるのだった。あのコロナ禍も、僕が覚えているのは新聞の小さな囲み記事で「中国で重傷者が出始めている。新型ウイルスか?」といった記事を目にしたことだった。数日してご近所のご主人が「マスクがなくなるらしいよ」といってきたときはまだ一笑に付す程度だった、…。
諍いを最小限に食いとめるためには原則が必要だと思っている。
仲裁者が「全体のバランスを保つためには、そこは我慢して」「これこれこういう理由があるから、いまはあなたが謝りなさい」と当時の二者に告げ場を収めるためには、予め同意を受けたルールが明示されている必要がある。誰もが100%の納得をしてはいなくとも、妥協点を見い出し、たとえ不利益があろうとその程度なら容認できるし、そのいくらかの我慢の上に公平性が保たれる筈、…と全員が信じるものが。
だが(こう書くと誤解されるかもしれないが、…。違いますよ。貶める意図はないです)多様性を認めよう、ということが声高に叫ばれる昨今、その原則的なルールの見直しが様々なところで図られている。見直し、と書いたが結論は出ていない。くわえてコロナ禍を経験したことで、既成の価値観にリセットがかかる可能性があることをわれわれは知ってしまった。いざ何事かが起こればまずは身近なところから小さな規模で救済措置を実施する必要があり、対岸ではなく自分の足許を守る必要があると知った。となれば全体よりも自国を優先するのは道理である。
マジョリティの判断を優先していた既存のルールの突然の変更要請は、まだその完遂を見ていない。つまりわれわれは、いまは検討中でありルールのない社会を生きているのだ。
世界は不安定な過渡期であり、そのはざまで侵攻を開始した強国もある。暴挙を食い止め、抑止する新たな論理が世界にはない。そしてもっとも恐ろしいことには、新しいルールが確立できる保証もまたない。
争いごとを止めるのに最も有効な方法は何なのか。
『シビル・ウォー』が描き出すメッセージは「いざ戦争が始まれば、あなたが思っている以上にひどいことになりますよ」だと思う。ミサイルが飛んで来れば逃げればいい、攻撃されればやり返せばいい、やられる前に攻撃を始めればもっといい、…という考えはあまりにも想像力が欠如している。
「もし暴力をふるわれれば」という何とも不快な仮定の問い掛けに、先に僕は渋々「やはり暴力でやり返すしか」と答えたが、それで相手のふるってきた暴力を食い止められる保証はなく、回避できるとは限らない。だが、結局僕が蹂躙されることになっても、相手にかすり傷のひとつくらいは負わせられるとすれば、結果的には双方が大小の差はあれ傷つくことになる。
それは正しいことだろうか。
『シビル・ウォー』のなかで描かれる世界は、ミサイルや銃弾で傷つくだけの世界ではない。
戦争状態に置かれると法が機能しなくなる。われわれは法治国家の一員として、罰則付きの絶対のルールのもとで安定した暮らしを得ているのだが、法が瓦解すれば他者とのやりとりの間に理不尽な力が介入することになる。
「ガソリンを売ってくれ」「何ドルです」「じゃあ、これで」といった経済のやりとりも貨幣に対する信頼が担保されて行われているわけだ。もしその信頼が失われれば、人は欲しいものをどうやって手に入れるようになるのだろう。力で奪うのがデフォルトの世界になる。それは敵の脅威とはまた別の次元で発生する、恐怖の世界だ。
傷つけられても文句はいえない。欲望を解放しても咎められることがない。咎める者がいれば殺せばよい。物品のやりとりならまだ判る。それが、独善的な思想信条になれば?
「お前は〇〇人だから、おれはお前を殺す」
という思考のなかにまともな理由や因果関係があるとは思えないのだが、戦争はそれがまかりとおる世界を作り出してしまう。
こういった状況を描く主旋律と別に、『シビル・ウォー』は映画としてもうひとつ、裏旋律のごとき物語を内包している。
主人公のリー(キルスティン・ダンスト)は報道カメラマンとして著名な立場だが、彼女のなかには「暴力の現場を撮って世界に知らしめる」役割と、「本当は人として、シャッターを押す前に助けるべきではないのか」という倫理の葛藤が生じている。報道カメラマンとして生きるか、人間らしさを優先するか、の内的対立は、仕事か人かの対立でもある。使命か、良心か。
そのリーが、彼女に憧れ報道カメラマンという職業に憧れる、若いジェシーと出会う。ジェシーはまだ何者でもない。ニューヨークからワシントンDCまでの道中、リーの目は庇護者として、メンターとしてジェシーを見つめる。リーのなかにある葛藤や迷いをわれわれは知っているが、ジェシーは知らない。知る由もない。
無法の世界で、銃を持った男たちと彼女たち一行が出会う。
本来日常に隠されていた筈の暴力が、緊急事態という条件下で解放されている現場を彼女たちは目の当たりにするのだが、そこでジェシーは激しく傷つき、リーは平然と写真を撮る。この場面にリーのなかで矛盾が生じないのは、男たちが銃を持ちながらにして引鉄に指をかけていない、というあまりにも些細なディティールの演出がなされているからだが、ともかく、ジェシーは二重の意味で傷つくのだった。暴力に対し恐怖を感じたことと、それゆえ写真を撮れなかった自分のふがいなさとに。
その場を離れると、ジェシーは涙を流しゲロを吐きながら「今度は上手く撮る」と誓う。本人にその自覚はないが、それは「助けること」を二の次に使命に生きようとする決意の表明であり、ジェシーの(リーがまだ捨てきれずにいる)人間性の放棄を意味する瞬間なのだった。
映画は、こうした二人の真逆のベクトルを秘めた二人の変化も巧みに描いている。
アレックス・ガーランド監督も、ショーン・ベイカー以外のA24作品も僕は好きではないが(あまりにも映画通ぶっている。A24製作だから、といって過剰に持ち上げる薄っぺらな映画ファン気取りも嫌いだ)、猛烈な直感の導きで『シビル・ウォー/アメリカ最後の日』は公開直後に劇場に行った。勘は外れていなかった。
これほどアップ・トウ・デイトな作品は観たことがない。いま、必見の一作。『MEN/同じ顔の男たち』(22)を観て「さいあくー」と思った人にもお勧め。僕もそうだったのだが。