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『ゴジラ-1.0』/人の知見と矜持(映画感想文)

年も明けて間もない2日に、東京・羽田空港の滑走路上で日本航空機の旅客機と海上保安庁の航空機が衝突、両機ともに炎上する事故が起こった。海保機の乗員に死者は出たが、旅客機の乗客と乗員379人は限られた時間で全員無事だった。
炎上する機体からの脱出にはスタッフの冷静で明晰な対応が大きかったと思う。日航は以前大きな事故に見舞われ、以来繰り返してはならないと引き継がれた精神性と徹底した研修との結果だろう。乗客が指示に従ったということも大きい。
ただ事故後のペットに対する扱いについての識者の無責任な発言や、CAからの指示がなかった等の莫迦莫迦しい空虚な誹謗を聞いていると腹が立つのを通り越して慄然とする。
ペットを荷物として預けるのではなく客室に持ち込めるようにするべきだ、エールフランスはそうしている、といった著名人がいるらしいが、手荷物を持ち出さず脱出したのが功を奏したとこれだけいわれているなかで、結局は手荷物扱いになることを判っていながら何をいっているのか。さらに客室に持ち込めるとはいいながらも大陸間移動では不可だとか、様々な条件付きでの話であることも知らずにいっていると思うと、判っている筈のことを理解せず、また知らないことを自覚もせずにいっていることがよく判る。
いつから、こんなにくだらない主張が公然となされるようになったのか、…。

と、僕自身も結局はくだらない批判をしていることになってもアレなのだが、なぜこんなことから書き出したかというと事故のその後の周辺をニュースで見ていて、映画のなかで語られた真反対のある科白を思い出したから

「誰かが貧乏くじを引かなきゃならないんだよ」

こういった美徳を本当にかつての日本国民が持っていたかどうか(本当は)判らない。だが、フィクションの作品のなかで登場人物のひとりに、こういわせたかった監督の気持ちは判る。
事故後に発信されたあれやこれやのなかで、いちばん恐ろしいと思ったのは子どもに「後ろのドアを開ければどうか」といわせている親が撮ったと思しき動画だ。それを、さも正しいことのように、恐怖に慄く子どもといったキャプションで取り上げるメディアにも、ここまで堕ちたかと思わせられた。専門知識を有するスタッフが「そのドアを開けない」と判断しているのに、素人がなぜ「開けるのが正しい」と思えるのか。悲劇なのは、少なくとも以前は莫迦な人は自分がそうだという自覚があった。いまは自分が莫迦であることに気付かないほどに無知化が進んでいる

年末に最後に観たのは『ゴジラ -0.1』(23)だった。
観に行く予定はなかったが、意外な人たち(ゴジラに興味のなさそうな人たち)の評判が驚くほどによく、それで興味を持ち行くことにした。
感想からいうと、めちゃくちゃおもしろかった。観ている間から興奮し、感情を揺さぶられたが、それは人物たちの気持ちが大変判り易く描かれていたからだろう。こんな出来事があれば当然そう思う、こんな事態に巻き込まれれば当然そう考える、という当たり前のことを避けずに丁寧にやっている。気恥ずかしいほどに真っすぐだが、これぞ映画と思い出させてくれる良品。
『シン・ゴジラ』(16)という変化球漫才のあとに王道のしゃべくりが出てきて高得点をかっさらっていく、そんな『ゴジラ』だった。この2作を単純に比較することはナンセンスだと思うが、変則フォークのあとにズバリと投げ込まれた力のある真っすぐだ。
しかし山崎貴監督が、さりげなく見えるようでその実大変凝ったことをしているのも理解できる。徹底して正確さを要求した時代考証と、しかし作劇のためにハズす部分の取捨選択にはなかなか勇気が必要だっただろうとも思うし、展開として盛り上げるために『ジョーズ』(75)のフォーマットを拝借しているところも賛否が分かれる点かもしれない。

山崎監督が発端のコンセプトに置いたのは「日本(という国家)対ゴジラ」ではなく、「人間対ゴジラ」だったそうだ。この「人間」とは「私たち」に置き換えられる。特殊機関や軍隊ではなく市井の人々がゴジラに立ち向かう、そうであるなら自衛隊がない世界での「ゴジラ」になる。この発想は以前から山崎監督のなかにはあったというが、そこに辿り着いたことが今作のすべてだろう。結果として人がそれぞれの知見を活かして立ち上がる物語になった。
先に挙げた「貧乏くじ」の科白は佐々木蔵之介演じる秋津淸治のそれだ。
秋津は機雷除去の任務を負って海に出る特設掃海艇の艇長。特設とはいえ船は木造、四人乗ればいっぱいの小船で、危険な任務の遂行に励む。
全体を覆うムードは暗く、神木隆之介演じる主人公はトラウマを抱えて常に辛気臭い顔をしているのに、『ゴジラ -0.1』は爽快感に満ちている。ゴジラもただひたすら怖い。これまでのゴジラ作品のなかでも出番が少なく、そして得体が知れない。何なのか。何の目的で現れるのかも判らず、その分だけ生々しい恐怖としてゴジラは現れる。動物のように獰猛な生きた、それでいて規模的には大災害を与える何かなのだ。しかし、なぜこの映画はこんなにも見ていて心地がいいのだろう。
ひとつに、その辛気臭い主人公・敷島を取り巻く人々に負うところも大きい。単に人がいいとか性格がよいとかいうことではなく、描かれる人物たちの多くが、自分なりの生き様とそれまでに身に着けた技能を持ち、それを誇りに思っている
戦後のこの時代に生きる人たちが本当にそうだったかは不明だが、少なくとも、ネットで仕事や会社の愚痴をこぼし、聴こえないところで口汚い批判をし、自己中心的価値観でくだらない見解を大声で騒ぎ立てて、いかにも自分が正しいなどいう顔はしない。物語を盛り上げるために愚劣な判断を押しつける都合のいい人物も配されていない。登場するのは、自分が正しいなどとかたくなに信じることなく、しかし他人のために自分ができることを精一杯やろうとする人たちだ。

翻って現実に目をむけると、本当にSNSは人をダメにしたと気付かされる。
何の努力も工夫もなく、センスも取り立てて主張すべきことも、そこに至るまでの研鑽や学習もないものが、何かを声高に多くの人にいえるようになった。以前なら無知では他人に対して物はいえなかった。誰かに何かを訴えるためには一生懸命に学ぶ必要があり、そうして多くの人が自分の知見を増やしていった
今回の日航機の事故の現場では、自己中心的に騒ぎ自分勝手な行動をとろうとした道理の判らない視野の狭い人間を、他の乗客がいさめる場面もあったと聞く。それで従ったのだから、よしとしたい(先の動画の親だけは本当に許せない。子どもを正しく教育するのが親なのに、自分の愚かな誤った判断に子どもを利用している)。しかし、なんと公共インフラや公僕に文句をいう人の多いことか。想像力の欠如としか僕には思えないのだが、さぞかしそういう人たちの人生はつまらないだろう。

『ゴジラ -0.1』ではもちろんちゃんと最後、主人公にスポットがあたる。トラウマを乗り越え、様々な問題も融和する。その途上において多くの人が支え合い、それで乗り越えられたというのがまた素晴らしいじゃないか。
戦争や特攻にいろいろ物申したい人もいるのかもしれないが、だが、生き残り、敗戦の傷跡が生々しい国を力強く復興させたという人びとを描くことには価値がある。『シン・ゴジラ』が東北の震災に対して「国家を信用してよし」という強いメッセージであったことで僕は庵野秀明という人物に好感を抱いたが、誰しも、自分の生まれた国や国民をよく思える、そんな作品が見たいのでは?『ゴジラ -0.1』はそんな映画だった。

年が明けて、ようやくこの映画のどこがよかったのかが自分で理解できた。いやー、先にも書いたとおり、本当におもしろかったのだが、何でいいと感じたのか自分でも判ってなかったんだよね。年越しで(自分の内面の謎が)解決した。

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