『動物界』/ユニークな発想と視線の優しさが印象的(映画感想文)
もっとも恐ろしいのは「死」だ。自分のそれもだが、親しい者との死別はそれ以上に恐ろしい。次は思わぬ方向へ肉体や精神が「変わること」だろうか。
既に何度か書いたことだけれど、思春期の結構な時間を認知症の祖父、それから祖母の介護に費やしていた。それまで優しく穏やかだった人がそうではない何者かに変わっていくのを見て、困惑し、正直にいえば手に負い難い厄介さを引き受けざるを得なくなり、哀しい思いもした。
好きであればある程、関係性の喪失は恐怖だ。自分の知っている人と同じ人ではなくなる。元の人格は失われ、その人との心地よかった関係を取り戻すことは出来なくなる。
親にとっては「喜び」として捉えるべき子の成長も「変化」には違いない。親の理解を越え、内面に親の思いの届かない思考を宿す。子どものすべてを知り、庇護したいと願う親ほど、そのとき恐怖を痛感する。子どもとは、自分の知らない何かに成長していくものなのだと。子どもはいつまでも子どもでいる筈がなく、もしも大人でありながら子どもで居続けるとするなら、それもまた恐怖には違いないのだが。
加齢による認知はいうまでもなく、病気や負傷による肉体的変化も怖い。突然、事故で身体を欠損する。あるいは病気でこれまでの健常な状態ではなくなってしまう。能動的に求めた結果の思考の変化と異なり、自己の肉体の変化や、あるいは親しいものが不測の事態で変わっていく様を受け入れるのは難しい。
第49回セザール賞で多くの賞にノミネートされたフランス映画、『動物界』(24)は「変貌」する人びととそれを取り巻く人びととを描いた傑作。
残念なことに、セザール賞では主要な賞を『落下の解剖学』(24)に譲るのだが、選考委員たちの目の節穴っぷりもいいところだ。扱うテーマの重要性も、人への敬意も、映画としてのダイナミズムも『落下の解剖学』とは比べようがない。『動物界』の方がはるかに素晴らしい。作っている人間の心が違うのだと思う。卑しい人間が作れば当然その内面を反映して卑しさが前に出た作品が出来上がり、人の崇高さや愛や思い遣ることの価値を知る人間が作れば、表面的にキワモノに見えたとしてもその実、強靭な美しさを秘めた作品になる。
人が動物に変わってしまう病気が突然、世界に蔓延する。
決定的な治療法のないその病気への対策はまちまちで、動物に変わった罹患者と共存しようとする国もあれば、患者を隔離し社会からただ遠ざけるだけの国もある。手の打ちようはいまのところなく、健常者にとって「人ではないもの」に変わってしまった元は家族や友人であった何者かは、気味が悪いうえに脅威だ。フランスは後者の施策を選ぶ。患者を集めて壁のむこうに集め閉じ込めようとする。
調理師のフランソワと思春期の息子エミール父子の家族でも罹患者が出た。フランソワの妻でありエミールの母親でもあるラナだ。発病していまは病院に入院しているが、勧められて南仏にできた施設に転院することになる。体のいい隔離だった。家族想いのフランソワは妻の収容される施設の近くに引っ越すといい、エミールも転校する。父と子の新天地での生活が始まる。
発想の根本はコロナだと思う。
あのとき、人びとは罹患した患者を隔離した。入院していた家族や老人ホーム、施設に入っている家族と会えなくなったという経験をした人もいる。発病すればそれまでの家族関係は崩れ、行政の指導に基づき強制的な隔離生活を余儀なくされた。
思い出せば流行の兆しが見えてしばらくの最初期は「罹っても人にいえない」空気がなかっただろうか。ひとたび流行し出してからは誰から広まったのか、海外に旅行していた人はいなかったか、咳が出ているのに人込みに出掛けたものはいなかったか、…とあたかも犯人捜しのような指摘が公然と行われた。その次に訪れたのはワクチンに関する誹謗と、「誰が注射をしていない」という個人への中傷。だが広範に亘る蔓延のあとは、感染しなかったものが少数者となり、立場は逆転した。
人びとは右往左往し、それまで疑うことのなかった既成の価値観がなし崩しになった(学校に行かなくてもいい、とか)。感染したものとしていないもの、ワクチンを打った人とそうでない人、という二者の分断が発生し、様々な人種や生活層を抱える国では差別も可視化されたに違いない。
映画は、突然蔓延った未知の病気に途惑う人びとの生活を描く。
大きなパニックが起こることはないが、家族に発症したものがいることは口にし辛い。日常のなかで何かが少しずつ、よくない方向へ変わっていくその様に多くの人が既視感を覚えるだろう。
当たり前だが、人間は初めて向き合うものに弱い。対処しきれず混乱を来す。
また、社会的な動物であり集団で困難に立ち向かうといわれながら、いざ未知の事態が発生すると集団の弱さを露呈もする。個人の方が思慮深く、思い切った判断が下せるといった場合でも、考えのない、そのくせ声だけ大きい(頭も心も)弱い人間に引きずられ、誤った方向へむかってしまう。
即決せざるを得ない事態では特に、パニックを起こす弱いものに引きずられる傾向がある。頭の弱い人が恐慌を来し、周囲の人を理由なく巻き込むのはなぜなのか? 人という仕組みの内面に仕込まれた最大のバグだと思う。イジメやSNSの根拠のない言説に振り回されるのも同じ。
発想の元はコロナから得たと思われるも、監督は「変わってしまった者」を取り巻く状況をていねいに描く。弱さや差別する意識や、またその真逆に思える無関心をも描く。「変わっていく家族」にむけられた筆致は、意図したものか否か思春期の変化に対する暗喩めいてもいて、父親は途惑いもする。ときに残酷な感性を発露させる子どもたち(といっても高校生か)だが、彼らのなかには温かい視点を持ち、迫害される罹患者に寄り添うものもいて、健気さやいたいけな爽やかさも観るものに感じさせる。『落下の解剖学』とは真逆の視点で監督は人々を観察している。
現実のコロナと異なり、もしかするとこれは進化なのではないか、と思わなくもない。
人が動物に変貌するといえば中島敦の「山月記」がそうであり、また手塚治虫の「きりひと賛歌」もそうだった。前者において、「以前はなぜ自分は虎になるのかと考えていたが、最近ではなぜ自分は以前は人間だったのかと考えるようになった」というのは作品のなかの白眉でもっとも心を抉る科白だが、『動物界』を観ていると、「そうかもな」と思わなくもない。いや、トマ・カイエ監督は日本のアニメ映画は知っていても中島敦までは知るまいと思うが、…。
もし、人が動物になっても受け入れることが出来れば、それは人の知見の新たなステージへの進化を表しているかもしれない、とも感じた。ニュータイプみたいだ。
人が動物に変貌する、というネタなら、いくらでもドラマチックにできるし、あるいは次から次へとイマジネーションを刺激するモンスターが登場するアクション映画にだって料理のしようはあったと思うのだが、監督は少しもそういった安易な方向へ流れない。ただただ、豊かな発想と創造性に満ちた展開がここにはある。われわれの日常からけっして懸け離れることなくリアリティを保ちながら、納得のいく行動を誰もが取り、そして勇気や思い遣りが発揮される度、人の持つ素晴らしさに心を揺さぶられる。
誤解を恐れずにいえば、登場する半人半獣の罹患者たちはグロテスクでもあるし、美しくもある。
ビジュアルは斬新。だが繰り返しになるが、「これは現実に起こった出来事」といったリアリティは少しも損なわれることがない。こんな非日常的な出来事をリアルに描いた映画を僕は他には知らない。
多くの現実的な問題に触れながらも、巧みな暗喩の置き換えを用いることで大変おもしろく仕上がっている。様々な状況で見せる人びとのふるまいが大変に爽快で、そして潔い。
個人的に「いい映画」の基準は「心に残る、刺さる場面があるか否か」なのだが、『動物界』にはそれがいくつもあった。よかった。