『正義の行方』/取返しがつかないことをする権利(映画感想文)
92年に福岡で、登校中の女児2人が姿を消し、変わり果てた姿で発見される。
目撃証言や過去に近隣で起こった同様の事件時の捜査情報から、警察はひとりの男性を容疑者とし逮捕状の請求を決めた。だが物証が足りない。そこで現場に残されていた犯人のものと思しき血痕と容疑者男性のそれとをDNA鑑定で照合することにした。結果は「ほぼ間違いなく同一人物」、逮捕に至る。
06年に最高裁で死刑が確定。08年に執行。
死刑の確定から執行までの期間は平均すると6~8年、最近では少しはやくなり4、5年といわれている。また、再審請求が行われている間は執行されないというのが(当時は)暗黙の了解だが、今件は確定から2年という異例のはやさで執行されている。
なぜなのか。
『正義の行方』(24)は、この事件に関わった福岡県警の捜査員、報道した西日本新聞の記者たち、そして弁護団の三つの立場の人々に取材している。
警察がどう犯人に迫ったのか、新聞はどう報道したのか、弁護団はどう裁判にむき合い、判決後に異例のはやさで執行されたいまも、どう真実を追及し続けているのかを、主観に傾きがちなナレーションを排し、証言をバランスよく採用する構成で描いていく。
監督は、元NHKのディレクター木寺一孝。NHKのテレビで取材、制作された素材が元になっている。
大変なものを観てしまった、という印象。
父親が警官だったこともあって、警察に対して世間一般の人より愛着(?)も尊敬の念も、また親近感も僕はある。事情を知らずに僕の前で平気で警察という職業を罵倒する人もいるが(世話になっている企業の偉い人とかが突然口汚く警察を詰りだして困ること場面はしょっちゅうあるが、当然そういうときは黙っている。個人の意見には干渉しない。ただ腹の底で「あんたも困ったときは警察を頼るんだろ」と思うばかりだ)、…。
日本において警察は信頼できる組織である。代替の機関は他にない。警察が腐敗すれば犯罪はし放題になり生活の安全は保証されなくなる。悪辣な犯罪者に対抗できる組織は警察だけであり、彼らは犯罪者に対して圧倒的な力を容赦なく備えている。
だが、もし仮にその警察が間違えたら? 何も罪を犯していない人を犯人だと決めてしまったら、…? 拘留され取り調べられる過程は現在もブラックボックスだ。
いったいどんな技で非道なものたちを攻略しあれだけ告白させることができるのだろう。
テレビの事件報道を見ても、容疑者を自供に追い込む彼らの技には驚かされる。だが、もしそれが自分にむけられたら。物証の発見や捜索の手腕も警察は量的質的に優れている。だが、もし事情を知るものが計画的に都合よく物証を発見できるように仕組んだとすれば? それを指摘することも覆すことも、いわんや不正を発見することも容易ではあるまい。たとえば、本当はなかった証拠を被疑者の自動車や、それまでなかった現場に故意に隠しておくなどされたときには。
先にも書いたように、監督は一切の主観を排して事件に臨んでいる。
だが、ときどき警察のやり方が本当に正しかったのだろうか、と思わされる場面がある。
報道についても同じだ。
登場する複数の記者のなかに、当時の報道が「犯人がこの人物で間違いない」といった方向へ誘導するものだった、と十数年以上を経て告白するものがいた。心のなかにわだかまる暗いかたまりをいまだ消せずにいる人がいるのだ(当時サブキャップだった傍示文昭はのちに編集局長になり、事件を再検証する大規模なキャンペーンを張る。この人は劇中で唯一、間違いなく良心的な人物だと思える人だった)。
当然判決の出た過去の事件について警察が見解を変えることはないが、記者は「警察発表に対し何の検討もせず記事にしてしまったことが正しかったのか」と振り返り、揺れる。
そして犯人も。間違いではなかったのか。それとも、やはりあの男だったのか。
僕はこれまで「終身刑のない日本では死刑は存続すべき」という立場をとってきた。存続か廃止かの議論は当然するべきだ。だが、そのときはただ失くすのではなく、代替の刑として終身刑を設ける議論も同時にする必要があると思っている。死刑については被害者感情を思えば、あってよいとも思っていた。
だが今回初めて「死刑にしてしまうと永遠に失われるものがある」ことを知った。犯人と思われる人物は最期まで否認し続け、事件について何も語らぬまま生命を奪われてしまったのだが、そのために事件はほぼ何も判らないまま、ただ終わってしまったのだ。
なぜそんなことになってしまったのか。
今件で犯人が否認したまま、犯人だけが知りうる事実の暴露もないまま死刑が確定し、そして執行されたのには「DNA鑑定」が大きな決め手となっていた。
だが、のちにその精度には疑義が生じている。
用いられたのは当時最新式とされたMCT118鑑定。だが、同じMCT118式で鑑定され無期懲役の刑をいいわたされた別の事件の被告が、この数年後に「その精度に信用がおけない」という理由で裁判所から執行停止を命じられ、無罪となり釈放されている。
先に述べたように、今事件には決定的な物証がなかった。逮捕状請求の決め手となったのはこのDNA鑑定だ。だが、時を経てこの鑑定には信頼がおけないという判断が下され、ある人は無罪となった。では、今事件で死刑をいい渡された当該の人物も、…?
それはもう果たせない。
なぜなら、すでに死刑は執行されてしまっていたのだから。
大変なものを観てしまった、というのはこのことだ。
もしかすれば故意だったのか、あるいはこれが当時の人の知性の限界だったのか、などと問うても何の意味もないことは判っている。だが国家がひとりの無実の人物を殺してしまった可能性がある。取返しはつかない。人は過ちを犯す存在だとは知っているがこれは果たして許されることなのだろうか、という思いが多くの人の胸に生じ、そしてその答えは出ないままになってしまった。
いま挙げたDNA鑑定についての件は、あくまで『正義の行方』で描かれるひとつの挿話に過ぎない。
この事件は判らないことばかりだ。いや、今事件によって「人には判りようのない」多くのことがあると露呈し、これまで完璧だと信じていた司法や治安の仕組みに弱さや不完全さがあることがあかるみに出た。
それについて議論をして改善していくべきなのだ、というのは容易いが、しかし人はそれほど成熟しても善人ばかりでもなく、誰かが己の立場に固執し自身を「間違いない」と信じ続ける限りは、それは難しいと暗鬱な気持ちになる。
今後どこへ『正義』が行くのか、誰にも判らない。
警察という仕組みがあることが悪いとは絶対に思えない。だが間違いを犯すことはあるかもしれない。使命として、同様の犯行を繰り返させず幼い生命を守り続ける、そのこと自体は圧倒的に正しい。だが、それが思い込みになり我が身を鑑みることができなくなってしまえば。
保持する力の大きさゆえ、人々を脅かし、ときには(裁判所や検察がチェック機能としてあっても)無実の人間を犯罪者と決めつけ、根拠薄弱なまま生命を奪うことができるのだと。
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