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『パルプ・フィクション』/有機的に結びつかないただの断片(映画感想文)

クエンティン・タランティーノ監督の2作目の長編作品のタイトルは『パルプ・フィクション』(94)。その意味するところは、文芸的ではない、娯楽読み物を掲載した「三流雑誌」。その名の通り、一本の映画のなかにいくつかの物語が詰まっている。
公開当時はその構成も話題だった。バラバラに思える複数のエピソードが絡み合うスタイルの作品は当時はまだあまり知られていなかった(なくはない)。
作品を観た知人やメディアの評価は(カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したという前評判も相まって)高く、斬新でスタイリッシュだといわれていた。
だが、その異なるエピソードを収斂させる構成が本当に効果的だったかどうか、僕は疑問に思っている。

大きく三つの物語が、序章とエンディングにはさまれている。音楽アルバムの曲順構成に似ていて、序章とエンディングは同一モチーフを繰り返すインストルメンタルの小品だ。
三つの物語は時間軸が解体されていて「お、ここに繋がるのか」「そうか、こうなっていたのか」と気付かされ、観ていてクスッと笑うこともある。登場するのは古き良き通俗の手触りのある人物たちで、キャラクターはいずれも立っている。科白も洒落ていた。
だが公開当時、僕はそれほどこの映画をおもしろいと思わなかった。なぜなのか。

序章にあたるレストランのパンプキン&ハニー・バニーの挿話からタイトルに入る。場面が変わって始まるのは『パルプ・フィクション』といえばこのシーン! と誰もが想起する、ツイストを踊るトラボルタの登場する挿話だ。
装飾は素敵で、矢作俊彦ばりの(日活アクションにも通底するとぼけた味わいのある、イキな)科白のやりとりもカッコいい。トラボルタ演じるヴィンセントの造形もキュートだ。だがそこで描かれるのは、自分のボスの奥さんがデート後にオーバードーズを起こすだけのドタバタで、そこに至るプロセスにも無理がある(なんで勝手に吸うのか?)。
二つめの挿話では、ブルース・ウィリス演じるボクサーが八百長試合を命じられる。スリルと、とぼけた味わいに人生の理不尽さも表れているのだが、なぜボクシングの試合場面は一カットもないのだろう。「そんなもの必要ないんだよ!この方がクールだろ」とタランティーノ監督はいいそうだが、そうか? 汗が飛び散る閑散としたリングの描写があった方が生々しさも際立つのでは? なぜかこの映画、全体的にもっとも興奮する場面のカットが常にないような気がする。予算のつごうか?演出の問題なのか。この二つめの物語は予測不可能な方向へ展開していき、なかなかおもしろいが最後のオチは稚拙な下ネタの域を出ない。ファビアンのコケットなキャラクターも(彼女にはリンチ監督の映画から出張してきたようなホンモノのおかしな気配があって)魅力的だが、いささか苛立ちも覚える。
最後のボニーのエピソードははっきりいってコントだ。少々安っぽい

こういった一見バラバラに見える挿話が有機的に結びつきひとつの大きな流れを形作る、というスタイルの作品が映画に限らず小説やマンガでも見られるようになったのはこの映画以降であり、そういう意味ではパイオニアだとは思う。
だが公開時(もう30年も経つのか!)僕はどうにもこの構成が効果を上げているように思えなかった。企画を考える段階で、ひとつプロットを思い付いた。だが弱い。それを膨らませても2時間を支えることはできない。ではもうひとつ、同じ世界観のなかで起こる別の物語を考えた。むむむ、まだ尺が足りない。ではもうひとつ。メリハリをつけるためにひとつはコント仕立てにしよう。散漫だろうか。それなら同じテイストの序章とエンディングで挟めばどうだろう、…といった思考のやりとりがタランティーノのなかであったかどうかは僕のただの妄想だが、真実はこれに近いのではないかと昔もいまも思っている。仮タイトルは「デンジャラス・ディ」とかだったそうなので、ギャングの(大きなヤマに取り掛かっていないときの)日常を描こうというねらいはあれど、雑誌形式の詰め込んだ形にしようと当初から思っていたかどうかは判らない。だが2時間を支えるだけの力強いプロットがこのときのタランティーノにはまだ作ることができなかった、という可能性は高いと思う。なぜか。

それは、これがタランティーノ監督の好きなもののカタログに過ぎないからだ。
大きな流れを意識してゼロから作りだされたプロットはここにはない。彼の記憶のアーカイヴからカッコいい「場面」を抽出したらこうなった。「物語」ではなく(そうしていたならパクりの指摘を受けた可能性もあるが、監督が魅力を感じていたのは筋書きではない)それは断片的な「場面」であり「シチュエーション」であり、流れは二の次だ(場面のなかでの痛快な流れはあるが、論理的整合性などは無視されている)。
よって個々の挿話は絡んでいるように見えて、それは「有機的」にではなく、総体として大きな何かを生み出すに至っていない

初見時に、僕がおもしろいと思わなかったのは、ただ寄せ集めただけのように思えたからだ。配列にも結びつきにも工夫はなく、驚くような手際の鮮やかさも見られない。こういった形式の作品においては驚くような結合と展開が絶対に必要、…とも思わないが、それなら代わりに捻りか鋭いキレ味を備えていてほしいとは思う(小説になるが東野圭吾氏の『新参者』は個々の挿話は小さく穏やかであり、結びついたあとに表れる大きな物語もけっして奇抜ではないが、その結びつき方が美しく奇跡かと思える程に鮮やか)。

『パルプ・フィクション』にはただ既視感のある「断片」だけが並んでいる(だが箱の中身がカッコいいのは確かだ)。
少しだけ擁護すれば、またしても椹木野衣の言説を持ちだすようで恐縮だが、こういった「断片」をコレクションした作品が許容される時代でもあった(ちなみに、フリッパーズギターの『ヘッド博士の世界塔』のリリースは91年)。
ニッチな何かを見つけてきてカタログ的に誰かに自慢する、そうすることでマニアとしての評価が上がる。「お前、センスいいな」「おもしろいもの知ってるな」と賞賛されるが、そのことと「お前、おもしろいもの作るね」「スゲえこと考えてるな」はイコールではない。この当時まだタランティーノは「自分の知っているカッコいいもの」を提示することは出来ても、何かを創り出し彼でなければならない何かを作品化することができてはいない。

でもなぜあの時代、みんながこぞってタランティーノの映画を支持し、「おもしろい!」と飛びつくなんてことになったのだろう? いま振り返っても不思議だ。
お洒落では絶対にない。知る人ぞ知るか、といえばきっと他にももっと奥深いB級映画オタクはいると思う。偏愛の強さで彼は(もしかするとティム・バートンが切り開いた道があったのかもしれない)映画界に脚本を持ち込むことに成功し、ハーヴェイ・カイテルの力も大きかったようだが、あの悪名高きハーヴェイ・ワインスタインの目にとまったのはどうしてなのか。ワインスタイン率いるミラマックスはソダーバーグを見い出したり、『コックと泥棒、その妻と愛人』をアメリカで興行的に成功させたりもしている。彼の非道で卑劣な手管とは別に映画(と時代)に対する嗅覚は確かだったのだろうか。
だが、それにしてもタランティーノの映画をオタク気質の男、それも野郎と嘲笑気味に呼ばれるいかにも無神経で独特の臭気を放つオトコ連中が好むのはなんとなく判る。それがああまでムーブメントとなったのがよく判らない

ただ僕も若い頃はこういった生意気な、作り手の裏側を探るような見方しか出来なかったが、年齢を重ね多少は穏やかになった現在、娯楽として『パルプ・フィクション』を観ていると、案外なことにかなり楽しめた。30年ぶりに観ている間も観終わった直後も「あれ、おもしろかったやん」と思ったのだが、日を置いて振り返ると「そうでもないな」とやっぱり思っている。これぞ、読み捨ての雑誌をタイトルに掲げた作品に相応しい、…。
このあとタランティーノがもし同じような、自身のアーカイヴからただ断片だけを引っ張り出し披露するだけの映画製作を続けていたなら、僕のなかで変革が起こることはなかっただろう。だがあるときから彼は大きな方向転換を図る。『キル・ビル』(03、04)で出し尽くしてしまったのがよかったのか、…。09年の『イングロリアス・バスターズ』以降、映画という手段を使ってやりたい放題だ。とんでもない武器を与えられ、その最大限に効果的な使い方をようやく知ったかのように。『ジャンゴ/繋がれざる者』(12)も『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(19)も大変な傑作である。『パルプ・フィクション』で世間はタランティーノを認めたが、まだ本当の意味で彼は才能を開花させてはいない。この時期は助走の時期

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