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『猿の惑星/キングダム』/考えてもおもしろく、考えなくてもおもしろい(映画感想文)

最初の『猿の惑星』が68年。そこから5作が73年までに撮られている。
考察として猿は黒人のメタファーなのだとか、勢力を伸ばすアジア人の脅威が比喩的に描かれているのだとかいろいろいわれている。
この68年版の映画には同名の原作小説があり、作者はピエール・ブールというフランス人。ブールは第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となり、白人優位社会が逆転しアジア人に奴隷のように扱われた経験がある。
映画化に際してロッド・サーリングが脚本に起用されると「猿=アジア人」を直接想起させる要素は薄れた。それより冷戦時期を反映してか「国家間の争いにより人間が自滅する」という結末が用意される。サーリングらしい高次からの目線がここで導入されたのだ。
映画は大ヒットし続編の企画が立つも、次作にサーリングが書いた脚本はボツ。製作費も削減。以降5作目まで予算は下がり続け、それでもアイデアの勝利で傑作映画群は生まれヒットもし、73年の『最後の猿の惑星』に至りシリーズは終了。

20世紀フォックスは80年代に入りリブート計画を始動。ただしこのときは上手くいかず、01年にティム・バートンが監督をするも作品は批判と酷評を受ける。以降この作品の続編は生まれなかった。
それでもよほど『猿』の住む世界の物語は魅力的だったらしい。
三度、シリーズの企画が立ち上がり11年に『猿の惑星:創生記』が作られるとまたしてもヒット、続けて『新世紀』(14)、『聖戦記』(17)の三部作が公開。
もう白人と対立する黒人やアジア人といった構図は当然見られない。ここでは「人」と、新たに台頭する「そうではないもの」との関係が描かれている。人はその知性ある他者を理解できるのか、優越を認められるのか、人としての卑しい部分をどうすれば乗り越えられるのか、といった人間側の葛藤や、また「人ではない知性を有するもの」もやはり人と同じように妬みや嘘や暴力的な支配を行うようになり、やがては人と同等に自滅の道をたどるのか、…といった興味深いモチーフがさまざまに詰め込まれ、エンターティメントながら哲学的な作品に仕上がっている。おもしろい。
2作目と3作目の監督を務めたのがマット・リーヴス
僕はこの監督に大変注目していて「ヒーローが暴力を使わずして悪の存在と対決し得るか」というかなり難儀だが現代において重要な問題に本気で取り組んでいる(気がしている)。
エンターティメントのポピュラーなジャンルである「善悪」のドラマはほぼ勧善懲悪のスタイルだ。文字通り悪は懲らしめられるが、暴力の連鎖を食い止めることが世界的に大きな課題となるなかで(身近なところでは体罰やスパルタ式教育もそうかも。だが話が通じないやつもいる)どう暴力を使わずして暴力的な悪に対抗する正義を作り出すのか。新たな決着の付け方を見出すのか
この新シリーズでは「(人は人同士で殺し合うが)エイプはエイプを殺さない」という命題が中心に据えられ、そのなかで主人公(の猿たち)は敵対する身内にどう対処するか、またエイプを殺したエイプをどう扱うか、といった問題にも直面していた。
リーブスは『聖戦記』のあとで『THE BATMAN』(22)も監督しているが、あの悪のはびこる都市を舞台にそこでもなんとか「暴力的」にならない解決を図ろうとしている。

このリブート三部作が『聖戦記』で終了してから7年。
四度目の『猿の惑星』が新たに幕を開けた。

『猿の惑星/キングダム』は『聖戦記』から300年後の物語
前作までのヒーローでありカリスマ性を持った猿のシーザーも死して、彼の機智や栄光を知るものもいないある部族から物語は始まる。
正直に打ち明ければ、劇場で予告を観てもそれほど興味はそそられなかった。理由は、タイトルといい予告で見せられた映像といいどうにも既視感がある。多分こんな話だろうな、と容易に察しがつく。熱烈なシーザーファンである妻に誘われなければ観なかった可能性もある。
こんなことを書くのは劇場で予告を観るなりして、多分僕と同じように考え足を運ばずに済ましている人が少なからずいると思うからだが、観た結果から述べると『猿の惑星/キングダム』は観た方がいい。11年からのシーザーを中心とした三部作が辛気臭くって難し過ぎた人も、これは観るべきだ。
今作もどうやら三部構成でひとつの物語として作られているようなので、テーマの扱いの奥行はこれからだが「エイプはエイプを殺さない」という定義に縛られやや窮屈になっていた活劇が、ここでリセットがかけられ物語はよりシャープにそしてスムーズになっている。何も考えずに入っていけるが、やがて深遠な問題に観客が向き合う作りになっている。大変にテンポがよく、予告を観て「こんな話やんな。判る、判る」と思っていたように進むもそれがクライマックスではなく、より想定の上を猿たちは行く。エンターティメントの見本のような傑作、とまずはいっておきたい。

ネタバレにならないようにそれでも今作の優れた点を指摘しておくと、物語の冒頭である部族が中心に描かれるのだが、彼らは当然世界のすべてを知っていない。われわれ観客もその立場でスタートする。
世界にまだ「人」がいるのか、自分たち以外の部族がいるのか、そういった点はまったく不明のまま主人公の猿であるノアの部族での生活が描かれる。近代以前、原始時代の人間の生活に近い。
そこへ異物が登場する。その異物は主人公の部族とは違う価値観を有している(それが「猿」なのか「人」なのか、…は置いておいて)。よくよく考えてみれば実際はその筈で、同じ時代にコミットせずいくつもの種族や生物がいれば、それはそれぞれ違う文明を有しているものなぁ、と思わされる。江戸時代の日本(は世界でロンドンに並び人口が多かった。にもかかわらず)と同時期にヨーロッパではより進んだ工業化が成されてもいたわけだから。
作品のなかでは世界が本当に広い、様々な価値観を持った世界として描かれ、そこを旅しながら「これからどうなっていくのか」を考えるようになる。ノアは、「かつて地球がどうなっていたのか」や「人間とは何なのか」といったいかにも世界の終焉と再生を描いた作品の主人公が考えそうなことはほぼ考えない。だが、それは彼が利口でないことを意味しない。
エイプも人も、考え方はみんな異なるのだ。もし新たな知的生命体が現代の世界において台頭し始めたとして、多くの人が駆逐すべしと考えたとしても、なかには共存を図ろうとする人もいるだろう。諦観をもってその後の展開を見守る人もいるかもしれない。
いままで「ひとりのエイプの考え=映画全体のエイプの真理」として機能していたものが、今作ではなんとも不安定に描かれている。このエイプを信用していいのか、この「人」を信用していいのか、の答えが出ないまま、われわれは物語を観ることになる

観ながら途中まで「これ、別に猿じゃなくっていいやん」と思っていた。
ノアの部族を自然を愛する反科学主義文明の人々に設定し、世界の深遠な知を求める悪党たちを敵の位置に据えれば、宮崎駿作品やいくつかの有名なSF大作がやってきたことと変わりない。
だが、あるタイミングで「これはどうやら新たな関係を模索しようとしているのだ」、そしてその答えは誰もにとって絶対的なひとつの正解となり得ない、と判り始めたところから俄然おもしろくなる。『猿の惑星』が新たなステージに、新たな命題を求めて動き出したことが判る。
エンターティメント作品として『猿の惑星/キングダム』はめちゃくちゃおもしろかった。だがこれがこのエンタメとしての水準を維持したまま傑作となるか否かは、続編で「猿」たちの立ち位置や「人」の価値観がどう描かれるかによって変わるだろう。
ともかく、真の評価は自作以降だが、映画としてはこの一作は大変おもしろい。

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