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『I Like Movies』/本当に判る人にしか明かせない(映画感想文)

25年の一本目はカナダのインディペンデント映画『I Like Movies』(24)。
主人公は映画好きの高校生ローレンス。映画が好きなことにプライドを持ち、クラスの仲間や同じメディア論の受講生たちを見下している。見た目はデブで冴えない。映像監督としての才能があると勘違いしているのか、授業の内容と関係のない(くだらない)作品を撮りながら平然と「テーマに興味が持てなくて」といい放つ。唯一の理解者は同級生のマット。だがそのマットに対しても、「大学に進学してから本当に自分の人生が始まる」と信じるローレンスは内心で「仮の友。高校時代が終わればオサラバ」と思っている。本物のクソ野郎だ。
年始一本目が本当にこれでよかったのかな、…と冒頭すぐに不吉な印象が頭を過る。

監督はトロント在住のチャンドラー・レヴァック。これまでに数々のミュージックビデオを手掛けているという。公式hpには彼女の画像も載っているが、…見た目は女ローレンスだ。(hpには撮影監督を務めたリコ・モランの画像もあるが、彼はアンディ・マックイーン演じるレンタルビデオショップの先輩社員そっくりだ。彼はローレンスをいつも助けてくれる)。

ローレンスを見ていて不快になるのは自分がローレンスだった時期があるからだ。
周りの人の思惑よりも自分の表現したいことが最優先。だが才能もなく技術もないので、理解されることがない。理解されないのは自分のせいなのに、無理解だ、センスがない、と周囲の人たちに責任を転嫁し、結果見下すことになる。
創作を志す若い時期に限らず、大人になって仕事に取り組んでいても同様のふるまいをする人は少なからずいるが、…まあ、その人たちの話は置いておいて。
ある時期の僕もローレンスも、自身が創作や芸術に関わることを数段上の高尚な次元の行為と勘違いする嫌なヤツだ。そして周りの人たちは、その当人が自己中心的であることを判っている。才能もなく技術もなく、ただ知識と利己的な狂気の願望があることを(しかないことを)知っている。
映画が好きだというのはそんなに偉いことか?
(「〇〇が好きなのはそれほど立派か?」←この〇〇に、自分の趣味的何かを入れてみてください)

何かに目が眩み、それ以外のことが考えられなくなる時期は誰もにあるだろう。
だがその自己実現が叶わないとき、あなたならどうする? 家庭環境が恵まれていないから。実現に必要なプロセスを踏むことが出来なかったから(たとえば著名な映画作家を多く輩出しているNYUに進学できなかった、とか)、…そう考えることは容易い。結婚して家庭を持ったから夢をあきらめざるを得なかった、というのも。仕事が合わなかったから転職した、といって職歴だけが積み重なっていくことも根本の部分では同じ。
だが、物事の本当の姿はそんな言い訳ばかりをしている間は見えてこない。実際に一歩以上に踏み出してそこで苦しみ、どうにもならないことを一度は知ってからでないと。自分以外の人たちも何かを目指し、それぞれが複雑な思いを抱えて葛藤しつつ、それでも前に進むかあきらめるかの葛藤をしていることを知ってからでないと。何も見えてはこない。いい大人になって世間の多くの人びとや様々な立場の人に対し、彼岸から(届く筈もない匿名のネットで)ああだこうだと自分の信じる「正論」を吐くような真似をしている間は何も見えては来ないのだ。

『I Like Movies』ではローレンスの前に、物語の定型としてよくあるメンター的人物は登場しない。彼がどうなるかは劇場で観てほしいと思うが、既視感のある改心も判りやすい成長もない。
ただある人物が彼の前に登場し、初めこそその人物は彼に対し一人前の立派な「大人」として振舞うが、その人物も本当は何もかもを許し飲み込むことができる「大人」ではなく、やはりローレンス同様に内面に解消し難い何かを抱えた「ひとりの人間」であることが判ったところから物語は動き出す。そのベクトルはあからさまではない。
そしてその先に辿り着いたとき、「どんな映画が好きか」という誰もが容易に発しながら、本質をこれ以上なく鋭くえぐる問い掛けがあらためて発されて、意味を持つ。
誰かに対して好きな映画を熱く語るってロマンティックな行為だよなー、と思い出した。自分がモラトリアムの渦中にいて何者でもなかったときは、自分を知ってもらうのに必死で好きな映画や音楽をせっせと忙しく人に喋りちらかしていたけど、あるときから、それは本当に判ってもらえる人にしか語らなくなったのだ。そうそう気易く教えてはやれない。判り合えないと判っている他人に教えても意味がないもの。

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