『ラストナイト・イン・ソーホー』/エドガー・ライトの憧憬はわかるが、(映画感想文)
個人的な話からはじめるが僕が英国大好きになったのは80年代のエレポップやニューウェーブにドはまりしていた中学生の頃なので、それ以前のイギリスの音楽やファッションシーンは後追いで好きになった。よってスウィンギングロンドンへの憧憬も二次的なものである。60年代半ば、ファッションも音楽も映画もロンドンが中心で最先端でとても尖っていたと知るのはあとになってからのこと。
『ラストナイト・イン・ソーホー』(21)の舞台の半分はその60年代のロンドン。
冒頭からしばらくはヒロインのその時代へのあこがれが描かれる。
観ている僕も彼女と同じ年代の頃にイギリスへ抱いていた気持ちを思い出しすっかり魅了されてしまった。
この映画はエドガー・ライト監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(19)だ。絶対に狙ってやっている。タランティーノが愛する69年の映画の都を映画の力で再現したのを見て、自身の憧れるスウィンギングロンドンをスクリーンのなかに復活させようという試み。意欲は判る。
ただ物語が転がりだすと、舞台としてのロンドンは後方へ押しやられてしまう。惜しい。ただの舞台という意味ではなく、あの時代の持ち味やセンスがうまくプロットに活かされてこない。
映画に詳しい大学の先輩がこの映画を評して『シックスセンス』だ、とネタバレぎりぎりのコメントをFacebookに書いていたが、いやいや、この映画はハーンが「怪談」に収録した「耳なし芳一」やんけ、と鑑賞中、思っていた。ネタバレにならないと思うが、物語をジャンル分けすればやはりサスペンスである。唄も苦い青春物語も詰め込まれてはいるが骨子はサスペンスだ。前半に素晴らしく描かれた古き良きロンドンの栄華が後半になるとその仕掛けでしかなくなってしまうのは、監督(脚本も書いている)の力不足だと思うのだが、・・・どうだろう。
撮影されたのは19年の5月から。
観ている途中、この脚本はきっとコロナ禍に書かれたのだと思っていた。閉じこもらずに街に出よう、ふさぎ込まずに外に出てアクションを起こそうというメッセージが含まれていると考えたのだが、違った。
もうひとつ、男尊女卑ひいては女性をただ所有するものと考えるミソジニー的思考へのアンチメッセージだと、これも鑑賞中に思っていたのだが、…、結末においてはそれも揺らいでしまう。監督はその点については特段のメッセージを持たせてはいないのかもしれない。当時の風俗として、女性は男の娯楽の対象でしかありませんでした、という一面はただ物語の推進力として扱われているだけのようだ。確かに、当時流行りだったボンド映画のスノビズムは女性を男のファッションとして扱うことでもあり、それは多くの人に受け入れられたのだ。しかし、だからといって現代においてこの扱いはちょっと不味いのではないか。
別に多様性が、とかポリティカル・コレクトネスが、とかを無理に作品の趣旨を捻じ曲げて配慮することが必要だとは思わないし、表現の要請以上に過度な反応をすることはないと思っているが、この映画であればもともと備わっている起承転結が無神経な扱いを許さないように思うのだ。
『ラストナイト・イン・ソーホー』をあまり評価できないのはこの点で、この映画の価値観のブレっぷりが許容できない。価値観は鑑賞の際の軸であり、それにより登場人物たちの境遇を理解し行動に共感やカタルシスを覚えるのだから。
この作品においてヒロインのいったいどの感情に共感を覚えればいいのだろう?
たとえばの話として読んでもらえたらいいのだが、われわれの思考の元となる部分に「騙すやつは悪い」というのがあり「騙されたものが報復を図る」ところまでは映画なので許す、というのがあっても、その「騙した連中」に同情する構成はどうなのか。その切り取られた一場面において人物の感情は理解できても、お前、さっきはそっちの味方やったやんけ、と思うとどうにも映画に入っていけなくなるのだが。
そういう映画はこの数年他にも何本かあったな、とまず思い出したのは『ジュラシック・ワールド炎の王国』(18)だ。観客をフェイントにかけようと常識と思われていたことをひっくり返すのは結構だが、無理矢理感情を盛り上げるためだけに、登場人物の気持ちをあちらこちらに振り回すのはどうなのか。流行りなのか?
ということで、なんとも口惜しい鑑賞、・・・。ロンドン、大好きなんですよ。
(あくまで個人の感想ですよ)