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『レッド・ロケット』/滑稽な欲望が彼を前へと進ませる(映画感想文)

『レッド・ロケット』はショーン・ベイカーの21年の監督作品。
生まれも育ちもテキサスの主人公マイキーは、故郷を捨てロスでポルノ男優になった。「ポルノ界のアカデミー賞を5回逃した」という程度に成功を収めた知る人ぞ知るポルノスターだが、理由あって落ちぶれ無一文で故郷の街へ帰ってくる。
(このあたりの説明が一切ない。監督の脚本はめちゃくちゃスタイリッシュで的確だ。このあともいろんなことに関する説明的な描写はほぼない
泊まる家も仕事もない。結婚はしていたが、街へ出るとき妻と義母は捨てた。だがいま、あてにできるのは、その(離婚しきれないまま捨てた)妻のレクシーだけだ。「金は払うから家に置いてくれ」と彼女に懇願する始末。
仕事を探して家賃は払う、というものの閉鎖的で旧態依然とした街で「元ポルノ男優」の彼を雇ってくれる店はない。街のそばには工場があり、夜になると工場群のライトが眩しく輝いている。その工場のそばを無職のマイキーは自転車でただぶらぶらする。
隣の家に住むロニーはモラトリアムのまま中年になってしまったような男だが、戻ってきたマイキーと唯ひとり友達づきあいをしてくれる。気弱に見えて実はいいヤツであるロニーだが、彼にも別の面があった。従軍体験がないのにあたかも軍歴があるかのように詐称する、いわゆるストールン・バローだった、…。(それは彼の弱さの裏返しでもあり、何か強いものに従うことを無意識にもとめる現代的な男子の有り様を暗に示しているのかも)

舞台はアメリカのさびれた街で、出ていくか、工場ではたらきただ労働するだけの毎日を繰り返すかしか選択肢はない。夢もチャンスもない
地域をしきるワルいやつからマリファナを買うのは当たり前。売買を取り仕切っている女ボスは、もう結構な年齢のおばあちゃんで、レクシーの母親の友人だ。奇妙で滑稽な人間関係のせまい場所。マイキーが出て行きたかった気持ちも判る。だが住み続けている人たちに悲壮感はない。諦観が当たり前になっているようにも思えるが。何もないことに慣れれば、人は希望を持つこともなく繰り返しの毎日でも生きられるのかも。

この誇張されたように描かれる閉じた社会は、アメリカの現実だ。
声を上げることなく、時間をただ過ごすだけのために生きているような人たちを小癪なほど、さらりと監督は描いてみせる。夢を見ないことは罪なのか? あきらめたように日々を生きることはカッコが悪いことなのか
もどってきたマイキーは、まだ夢を捨てきれていない。調子のいいことばかりいって家に泊まり込み、それでもまた妻を捨てロスへ出て、ひとヤマ当てようと目論んでいる。
観客の評価や批評家のコメントによればマイキーは口先だけの自己都合を優先する嫌なヤツだ。度々挿入される大統領選挙のトランプの演説がメタファーのようにも思えるが、ショーン・ベイカー監督自身はインタビューで「僕は、トランプに限らずすべての政治家に『どうなんだろう』という思いを常に抱えているので(中略)マイキーはすべての政治家を象徴していると表現した方が感覚的には正しい気がします」と答えていた。そうか、監督もマイキーは信用ならんヤツと考えているのか、…。
確かに、彼は自分のことだけ、自分の欲望の実現だけを優先して考え、後先を思案せず行動するのだが。
映画を観ながら、しかし僕はマイキーが嫌いになれなかった。上手くいってほしいとさえ思いながら映画を観ていた。ある時点においては「そりゃないぜ」と思いはしたものの、やはり嫌いになりきることはできなかった。僕のなかにもマイキー的な部分があるからか? いい年をして(もうオッサンである)年下の女性にドはまりし、妻と義母を捨てようとし、適当なウソをつき、都合の悪いことには耳を貸さない。自分にできることだけで勝負しようとし、困れば手のひらを返して他人を頼る。生々しいのだ、この男の手触りが。きっとどれだけキレイごとを述べようが、映画を観てマイキーに嫌悪を覚えようが、誰しも心のなかに重なる部分を持っているのでは?

マイキーがポルノ男優だったという経歴から、セックスワーカーの人生の一面を描いた作品と捉えられている節もあるが、そうではないと僕は思う。あくまでそれは選ばれた労働、仕事の一ジャンルでしかない。ただ、マイキーを演じるサイモン・レックスは実際に00年代前半、俳優として人気が出た頃に、過去に出演したポルノビデオが流出し、人気シリーズを途中で降板しなくならなくなった(のちに映画へ舞台を移し再び成功を収めているそうだが)という事実があって、現実と架空のはずの登場人物が重なる。
そんなマイキーをユーモラスに演じるサイモン。
監督は、インタビュアーに「舞台となるテキサス州のガルベストンという街は荒廃したデストピアではなく、ある意味華やかに見えるのだが」と問い掛けられ、「僕はあらゆることに美を見出そうとしているのだ。場所についても同じ。素晴らしい撮影監督の腕により、あらゆる物事に視覚的な明るさを見出すことができるようになった」と答えている。
さらに「しかし、それ以上に大切なのはユーモアです。人生はユーモアに満ち、最悪の場所にいるときでさえ人間はユーモアで乗り切ろうとするものだ」とも。

きっと僕がマイキーを嫌いになりきれないのは彼の、享楽的に見えてそうではなく、ただ楽観を心の底から信奉し、人生とは前にむいて進んでこそ意味がある、と無自覚に思っているような姿勢に惹かれるからだろう。それは監督自身の放つ強いメッセージであると思う。
映画は冒頭からマイキーのクズ男っぷりを徹底して描き続けるが、そこには、そこはかとない滑稽さが漂い笑える。愛嬌がある。それは「あきらめない力」なのかもしれず、僕自身にそれが欠けているからこそ一抹の歪んだ憧憬を以てして見てしまうのかもしれず。
実際に描かれるのは、繰り返しになるが底辺の醜悪でくだらない小さな街の人たちだ。誰もかれもが(仕方なく)腐っている。社会のせいでもある。ただ、その醜い部分を糾弾したり、社会問題として論ったりすることなく、そこでも力強く明るく生きる人たちを監督は照射し、オッサンだが瑞々しい青春映画のごとく可愛らしい物語に仕上げたこの作品を、僕は大切にしたいと思った。相手を選びはするものの、誰かに勧めたくなる好みの一本。
(あとで知ったが、タイトルの『レッド・ロケット』とは欲情した犬のアレのことなのだそうだ、…。)

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