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『イノセンツ』/『童夢』に似ているだって?…ぜんぜん違う!(映画感想文)

『イノセンツ』はエスキル・フォクト監督のオリジナル脚本だ。日本では大友克洋の『童夢』からの影響を宣伝でも強く前面に打ち出しているが、本当にそうだろうか。
監督自身は、その影響を否定していない。

90年代に『AKIRA』の映画を観て衝撃を受けた。翻訳されているマンガを探すと(英語版の)『童夢』があった。一読、なぜこれを映画化しないのか! これこそ映画向きの作品だと感じた。今回、『イノセンツ』を撮るにあたってひさびさに読み返したが、やはり傑作だった。

(「ign.jp/23年7月27日」インタビューから)

最後の場面に『童夢』からの影響がおおいに表れている、と監督自身はいうものの、日本以外の国ではその類似や影響を指摘されたころはないそうだ。その理由として「海外ではすでに書籍としての『童夢』が絶版であり知名度が低いこともあるだろう」とリスペクトを隠さぬ口調で監督はいうが、そうかな。僕は、無機的な集合住宅、大人の視界からはずれた位置にいる子ども、特殊能力、といったタームが、すでに『童夢』の専売特許ではなくなり、どの国においても同様のシュチュェーションで描かれる作品が(マンガや映画や小説とメディアを限らず)あるのだと思う。
もちろん、だからといって『童夢』の先見性をないがしろにするつもりはない。僕自身も、単行本刊行時点で友人から押しつけられるようにして読み(中学生だった。マンガ通として一目置かれていた友人から僕はそれを借りた)、一読瞠目して、ふだんはマンガなど興味を持たぬ父に「とりあえず読んで!」と手渡した思い出があるのだから。(『童夢』は雑誌掲載が80年から。単行本刊行は83年)
衝撃的だった。
なので、先に挙げたようなタームを見て、日本人の多くが「『童夢』だ、…」と思うのは間違っていないし、日本文化の豊饒さの証であるとも思う。
しかし、『イノセンツ』は本当に『童夢』に似ているのだろうか
タイトルどおり、この映画の核となるテーマは「無垢性」だ。その解釈は「規範に縛られない」でもいいし、「無軌道な拡散する感情が素直に出てしまう」でもいい。分別を、ここでは単純に「自分の気持ちを社会性や、あとさきと秤にかけて検討する能力」だと定義づけして、無垢性はその対極にある。
『イノセンツ』は、特殊な能力をその無垢性しかまだ備え持っていない子どもたちに持たせた点が映画として大変優れた点で、その着想が圧倒的に物語を、予測不可能なところへ運んでいく。物語がかなり進んだ時点でも、いったい誰が正しく、誰が間違っているのかが判らないのだ。
ひるがえって『童夢』はどうか。
子ども=特殊能力、のアイデは圧倒的なインパクトを持つ絵として成立しているが、はたして、登場する子どもは「無垢」だったか。
「何がトマトよ。あんなことしたら赤ちゃんが死んじゃうでしょ」
という科白は、『童夢』のなかで「善」を司る少女が口にするそれだが、続いて彼女は邪悪な特殊能力の保持者に対しあきれた口調で(やや独り言風に)「なんていたずらっ子なのかしら」というのだ。ここに無垢性は不在、少女の身形をした集合住宅への新たな参入者である転居組のこの少女は、どちらかといえば母性を基に、邪悪な能力から住人たちを守っている節がある。そして、対する邪悪な能力の保持者は、認知症かと思われる老人なのだ
少女は以降、打算でも大義でもなく、ただ無意識に内面に形成されたであろう「正しさ」に基づき住人たちを助けていく。無垢性とはかなり縁遠い。反対に、作中で「悪」として描かれる老人は、おもしろいから、その人が持っていた何かがほしかったから、といった無邪気な衝動だけに基づきその能力を奔放に暴発させていく。打算や悪意といった他人に理解できるモチベーション不在という点では少女と同等だが、この老人の方が「無垢性」に近い。
しかし、老人はやはり老人だ。彼が持っているそれは、子どもが本来備えている(そして、いつか失うことが予定されている)無垢性とはまったく別物であることをわれわれは知っている。

『イノセンツ』は、能力のコントロール不能性を描くことで、逆説的に子ども特有の無垢性を描き出す。先に僕が挙げた「規範に縛られない」、「無軌道に感情が表出する」といった点が、所持する子どもにその能力を使わせ、さらに用いることで無垢性をより補完していく(他人にない特殊な力があることで、その保持者がさらに他人が形成する社会から逸脱していく、という構図だ)。
その点では、スティーブン・キングの小説とそれを映画化した作品群や、クローネンバーグの初期作品はかなり近いといえる。
クローネンバーグをここで挙げるのは、単に特殊能力を扱っているという理由で『スキャナーズ』(81)を想起したのではない。『ザ・ブルード/怒りのメタファー』(79)や『デッドゾーン』(83)に登場する人物たちが、切迫した希求により社会から逸脱していくその様が、『イノセンツ』に登場する人物の「ズレ」ていく様と重なるのだ。これらの作品に登場する彼らに共通しているのは、反社会的なモチベーションで共同体から外れ敵対していくのではなく、たまたまちょっと人とは違ったがゆえに外れざるを得なかった、という点であり、それゆえ孤独やせつなさが胸を打つ。

『イノセンツ』は、大変「絵」に力のある映画である。
不穏な雰囲気をかもしだす絵作りも、何かを予感させる構図もいい。必要によってはばっさりと簡潔でシンプルな切り取り方も監督はやる。背景の選択や、子どもの役者たちへのコントロールもすばらしかった。

「最近の映画には、次に何が起こるのだろうかとつい見入ってしまうようなサスペンスを感じさせる映画が少ない」
「オーディションでいろいろな子どもに会うなかで、とてもいい子たちがいた。その子たちを選んだ結果、最初は兄弟だった主人公が姉妹になった」

(「ign.jp/23年7月27日」)

「子どもは流動的な存在だ。大人が道徳を教えなければならない。(中略)重要なのは、本作に登場する危険な子どもが、決して悪い子どもだということではないことだ。人間らしさはみんなもっている」

(「weekend cunema/23年7月28日」インタビューから)

いやー、それにしてもある場面、むこうから現れる彼女の美しさよ!
この場面から与えられる映画的感動だけでも観る価値はあると思う。
魂の強靭さを感じさせる稀有なシーンで、口を開けて息を飲みました。傑作。

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