
『トワイライト・ウォリアーズ/決戦! 九龍城砦』/イミテーションのレトロ(映画感想文)
ただ爽快で胸躍るアクションシーンが続く映画も好きだが、スタティックで一見退屈、だが何かしらの哲学が全体を覆い、観終わった後で自身の内面の何かが(些細でも)変わっているという映画も好きだ。
後者は、必要だと思っている。自分が思っている以上に僕は無知で何も持たない。だがある種類の映画や小説や音楽が、何かを与え成長させてくれる。思考に幅を持たせ、人としての深みを与え、世界の素晴らしさを教えてくれる。
前者のただ痛快なだけの映画は? 何を与えてくれるのか。
もちろんアクション映画といえど、何の工夫もなくただ卑劣な敵をぶっ飛ばすシーンだけではない。そこには痛快さを引き立たせ観る人の胸をスカッとさせる幾多の凝った仕掛けがあり、作り手は腐心も工夫もしている。
『ピースメーカー』(98)のウィーンのカーチェイスがあれだけエモいのも、『ダイハード』(88)の展開のいちいちが「!」なのも、…と挙げていけばきりがないが、アクション映画には創意工夫が満載だ。「うーん、なるほど」と観終わってから観客が考えて何かを掴むタイプの映画とはあきらかに目的が違うので、快楽装置としてすぐに機能しなければならない。頭ではなく肌に、ハートに届くべきもので、是非は瞬時に判断できる。おもしろいか、おもしろくないか。ただそれだけ。作り手の理屈は精緻にあれ、観ているものは気付かない。それでいい。
『トワイライト・ウォリアーズ/決戦! 九龍城砦』(25)は香港のアクション映画。
余兒が08年に刊行した小説を、司徒劍僑が11年にマンガ化したものが原作で、香港のスラムとして知られた九龍城を舞台に敵対する裏社会組織の対立と抗争が描かれる。
監督はソイ・チェン、…といっても中国映画に疎い僕にはピンとこない。ただサモ・ハンが出ているのは判った。98年にハリウッドに進出したのを機に「サモ・ハン」としたというが、デブゴンで彼を知る僕らにとっては、サモ・ハン・キンポーである。劇中では大ボスと呼ばれる黒社会の一組織のボス。
平日の午前中に観に行ったのだがびっくりした。
その劇場でいちばん大きなスクリーンで観たのだが、ほぼ満席。「え、そうなん?」というのは僕自身がこの映画についてまったく知らなかったせいでもある。(観たときはそれほどまだ)巷で騒がれている様子もなかったしし、…。ただ異なる趣味傾向の年代も性別も違う知人の二人が熱烈にはまっている様子だったので、興味が湧いた。観に行くと、大半がひとりの女性。韓流に続き香港映画ブームなのか。
鑑賞するとさもありなん、嗜好の方向を勘違いしていたら申し訳ないのだが、あらゆるタイプのイケメンが出ている。顔ぶれはまったく(僕の知っていた時代の)香港映画らしくない。
日本のアイドル顔から、イケオジ風のダンディな顔から、ワイルドで朴訥だが頼りがいのある風貌から、…。「ジョジョの奇妙な冒険」の五部(ジョルノ)の連載が始まったとき、いよいよ荒木飛呂彦先生は女性ファンの開拓に本気を出したと思ったのだが、それはそれまで「悪いやつは悪い顔をしていた」ジョジョが、仲間側にはバラエティに富んだイケメン(可愛いアイドル顔もワイルドなのも知的なのも兄貴も)を揃え、敵役にまで洒落たカッコいいヤツらが登場するようになったからだ(セッコやノトーリアスB.I.Gは除くとしても)。
この『トワイライト』も登場するメンツは「ジョジョ」である。
その彼らが、熱いエピソードを積み重ねながら友情を深め、理解し合う仲間となり、本人たちにはどうしようもない理由で戦いに身を投じ、激しく傷つくのだから、…。そりゃ痺れるわ。
かつて韓国映画もそうだったが(いまはインド映画がそうかも)、ここではジャンルや作品としての統一よりも「こういう場面が観たいやろ」の原理が優先されている。全体として感傷的な暗い映画な筈なのに、ときどき場違いな笑えるギャグの場面が挿入され、悲しい場面に強引にアクションが割り込んでくる。中国映画に慣れないこちらとしては、笑っていいのかどうか、躊躇してしまう。
ただ、物語が転がり出すとひたすら痛快な場面が(物語的に矛盾も無理もなく)続く。このあたりの設定はさすが。何を載せても美味しく思える「皿」の作りがいい。しっかりしている。
だが、気になる点もある。
どの料理も相当に美味しいのだが、どこかで口にしたことのある味なのだ(組み合わせの奇妙さを除いて)。マンガかゲームなのかは判然としないが。
多分ばかりで申し訳ないが、アジア諸国やアメリカでのヒットを視野に入れ、相当なマーケティングをして作られているに違いない。日本市場に対する目配せだけでもずいぶん気になる。
先に書いたように主人公と取り巻く仲間4人の顔は日本人好みなのだが、それだけにとどまらずアジア各国で人気の高い顔に性格なのではないか。登場人物の選ばれ方が少し前の女性アイドルグループの作り方に似ている。
映画の時代設定は80年代後半、九龍城の取り壊し直前。
実際には84年の英中共同声明のなかで「97年には香港を返還する」旨が告げられ、香港政府は87年に九龍城の取り壊しと住民の強制移住の方針を発表している(取り壊し工事が行われたのは93年から94年)。
『トワイライト』のなかにはサモ・ハンが日本のマンガ雑誌を粗悪にコピーしたらしきものを読む場面もあり、日本のAⅤ女優や他にもあらゆる日本のサブカルがあちらこちらで影響を及ぼしているように描かれている。だが、僕は92年に香港を訪れているのだが、そのとき少しもそんなことはなかった。いまのようにインターネットが世界の情報を瞬時に交換する時代ではまだない。海外らしいキワモノっぽい何かを求めて表通りから一本だけ裏に入ったような(いま思えば可愛らしい)裏の通りにも足を踏み入れたが、あの当時の香港に「日本らしいもの」は少しもなかった。無修正のエロ本は日本のものではなく、キャラクター商品もいかにも中国らしい、なんともいえない顔にデザインだったように記憶しているのだが、…。
街の猥雑さ、無表情のなかに訝しさを湛えてむけられる視線、ひとつの区画に異なる生活臭の漂うものを無理矢理詰め込んだようなちぐはぐさは覚えている。『トワイライト』はほぼ九龍城の中だけで物語は進行するので、僕が見たものとは当然違うが、これは捏造された架空の過去だ。パラレルなレトロの世界であり、まあ、それはそれでおもしろいのだが。
別に九龍城でなくてもよかったのでは、と思ってしまう。
だが新たな創造の街として描くと何かが欠け落ちる。リアリティだろうか、厚みだろうか。もしかすれば郷愁のようなものなのかも。
本当はなかった場所を「かつてあった」場所に似せ、あたかもノスタルジックに描きたい気持ちは判る。軍艦島に代表されるような廃墟へ寄せる思慕であり、失われた(失われゆく)ものに対する歪な偏愛に過ぎないと僕は自覚している。子どもの頃から一度も暮らしたことがない純和風の日本家屋を見て「なつかしー」と声に出してしまうあの感覚だ。本当は懐かしいも何も、知りもしない筈なのに。
『トワイライト』を観ながら、『ブレードランナー』(82)でリドリー・スコットが選んだ東洋の神秘的猥雑で暗い街が「アジアには本当にあったんだなぁ」と誇らしく思いながらも、しかし心の片隅で、ごく少数の限られた人は、まったく違った心持ちでこの映画を観るのでは、と考えていた。
その人たちは作り込まれた九龍城を見て何を思うのだろう。記憶のなかにある街と照らし合わせ、懐かしいと思うのか。都合よく改変、蹂躙されていると思うのか。
そこで繰り拡がられる爽やかで情熱的な若者たちのドラマに、心のなかの焦点を合わせることができるのか、どうか。
香港の映画を観た観客たちは、作り込まれた九龍城を見て、「確かに外観はこのとおりだ。よく出来ている」という声もあるそうなのだが。