『ヒート』/男と、その周辺(映画感想文)
マイケル・マン監督の『ヒート』(95)は、マン監督自身が89年に撮ったテレビ映画『メイド・イン・LA』のセルフリメイク。そちらは未見なので、どの程度アレンジが施され、どの程度元の作品が活かされているのかが僕には判らないのだが、ある映画関連データベースのサイトは『ヒート』について「全く同じダイアローグ、カット割り、シークエンスだらけであるにも関わらず尺がほぼ倍になっているのはなぜなのか。ただ銃撃シーンの迫力は見事で、この部分だけなら数倍のヴァージョンアップになっているといえる」と評価を下しているので推し量ることは可能。
マン本人は、オリジナルとリメイクを「インスタントコーヒーとブルーマウンテンブレンドを飲み比べるようなもの」と語っている。それだけ『ヒート』にすべてを込め作り切ることが出来たということなのか。
実は発想の源はさらに遡ることができて、『メイド・イン』の脚本執筆にマンがあたる際に着想の元にした話があるという。
シカゴ市警の元警察官で刑事ドラマや映画のアドバイザーに転身したある人物が語った挿話がそれだ。人物の名はチャック・アダムソン。刑事時代に実際に遭遇したさまざまな話をアダムソンからマンは聞いているが、なかでも63年に監視対象者だった強盗の被疑者とばったりショッピングモールで顔を合わせたアダムソンが相手をコーヒーショップに誘いそこで会話を交わした、という話に強く惹かれた。連続強盗犯の名はニール・マッコーリー。
ニールはアダムソンに「強盗は、準備に多額の投資と綿密な計画が必要であり、失敗すれば財産だけでなく生命も失う。大変リスクの大きな仕事であり、十分な知性と頭脳がなければ不可能だ」と語ったそうだ。
その翌年、ニールはスーパーマーケットを襲撃するが包囲していた警官隊と銃撃戦になり、アダムソンに射殺されている。
マイケル・マンのことを「男(を撮らせたら右に出るものがいない)の監督」、彼の作品はほぼすべてそうだが特に『ヒート』を「男の映画」(「漢」という字を当てるのだろう)というのは、まあ判らなくはないし僕も劇場公開時には「そうやな」と思い、それから長い間記憶のなかでもそうに違いなかった。だが何十年ぶりかに観なおすと『ヒート』は「家族を持った男」の映画だ。
『ヒート』の主人公のひとり、アル・パチーノ演じるLA市警察のヴィンセント・ハナ警部補は二度の離婚歴があり、いまは三人目の妻とその連れ子と暮らしている。犯罪者逮捕の仕事に異様な執念を燃やして勤しむヴィンセントの結婚生活は、三度めの今回も破綻寸前。仕事莫迦の夫に愛想を尽かした妻もまた、あてつけるように男を家に引っ張り込み、その不安定な家庭のなかで妻の連れ子の思春期の娘は心を病んでいる。
もうひとりの主人公は、デ・ニーロ演じるニール。プロの強盗団のリーダーである彼こそ独身だが、仲間にはみんな妻がいて子どももいる。家族も含めて信頼し合い、結束は固い。ニールだけは自身のポリシーとして「すぐに高跳びできる」ように独身で恋人も作らないでいるのだが、時折ふと寂しさを覚えるのか、劇中で偶然出会ったひとりの、やはり寂しさを抱えた若い女性を愛おしく感じるようになる。
法の番人として秩序を守る側の男は家庭を顧みることなく家族は破綻寸前。悪事をはたらき罪を重ねる側の男たちには、大切な家族か大切な人がそばにいる。
クリスチャン・グーデカスト監督の『ザ・アウトロー』(18)に登場する刑事とギャンググループも同様に、ジェラルド・バトラー演じる刑事の家庭は崩壊寸前、対する犯罪グループのメンバーは家族仲もよく満ち足りた生活をしていた。
『ザ・アウトロー』が『ヒート』の構造を模倣しているとは思わない。他にも同様の設定の作品を挙げることはできる。アメリカ映画に登場する犯罪者には家族があり円満で羨ましい関係を築いている様が描かれるが、日本の映画や小説で、家族と深く信頼関係を描いている犯罪グループの面々が登場するものといえば、…すぐに思い浮かばない。社会や家族観の違いかもしれない。
家族や周辺との関係が上手くいかず、そこからはみ出したものが犯罪行為に走ることが日本の物語には多い気がする。行き詰まりの手段であり、そこに幸福なゴールはない。
海のむこうへ目を向けると『ゴッドファーザー』(72)からしてそうだが、たとえ犯罪であってもひとつの大きな事業として捉え結束して取り組む。手に入れたもので家族を潤し幸せにするという目的がある。犯罪が社会のはみ出し者たちが最後に選ぶ手段として描かれる日本の作品群に対し、外国映画のなかでは成功するための仕事のひとつとして描かれる。後者が教養ある人物、社会的地位と信頼を得る人物として描かれることも多い。個人優先主義と思われがちなアメリカ人だが親子関係や同性兄弟の仲のよさには強い血の信頼が感じられ、それがときにドラマチックなフックとして、犯罪行為に走る人物の内面に大きな影響を与えることもある。日本映画に登場する犯罪者が愛する人の想いを振り切ったりないがしろにしたりして結局罪を犯す選択をするのとは対照的だ。
『ヒート』のなかでニール率いるグループは次々と犯行を計画し実行していくが、合間にそれぞれの家族の様子が描かれる。ヴィンセントは必死で彼らを追いかけるが、合間に家族の抱えたトラブルが描かれる。
犯罪を行う男たちの潔い決断や、仲間を信じ行動するその姿には魅了されるし、彼らを逮捕するという目的にむかい突き進むヴィンセントや、彼を支える警察側のプロフェッショナルな姿も素晴らしい。リアリティがある。人間の息遣いも生々しく、熱い。
だが、この映画の素晴らしさはそれだけでなく、その合間に描かれるそれぞれの人間の姿、それが一見孤高に見え、実はそうではないところなのだと思う。
仲間が妻と家庭的な問題で諍いを起こしたと知れば、ごく普通の市井の人間と変わらぬ厚意でニールは修復を図る。自身のポリシーに基づき誰も愛さないと決めているのに、たまたま出会った若い女性が仕事で悩み、内に孤独を抱えていると知ると寄り添ってしまう。
仕事に忙しいヴィンセントは、妻の連れ子の娘が悩んでいることを知っている。どうにかしてやりたいと実は常に心のどこかで思っている。彼もまた、仕事と家庭との間で板挟みなのだ。それは少しも「漢の映画」としての『ヒート』の主人公を担う人物としての姿に重ならない。刑事対頭脳的な犯罪組織、の物語のなかでは些細にも思えるちょっとした私的な問題が、しかし登場人物たちの心を片隅で痛めている。
人には複数の面がある。ある面がその人物にとって最も強く表に出て来る状況でも、別の一面が完全に消失しているわけではない。人の生活には奥行があり、頭の中には他の何かがある。たったひとつのことだけを中心に生きられる筈がない。
だが、ひとつのことを突き進めていく過程において、他の何かをときには捨て、ときには放置することで劣化させ、気付いたときには手遅れということもある。もしかすれば自分を囲む多くのものをわれわれはそうして捨て、失いながら生きているのかも知れない、…。『ヒート』はふと、そんなことも考えさせてくれる映画でもあります。