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『さよならテレビ』/いまも誰もが縛られている(映画感想文)

『さよならテレビ』(20)を観ました。

中京広域圏を対象地域とするフジテレビ系列の放送局、東海テレビが18年に制作放送した77分のドキュメンタリー番組を新たに109分に編集しなおした映画版です。取材対象は東海テレビ報道部、カメラを回し取材するのも局のスタッフです。
オンエアされたとき業界に激震が走ったという程度の情報しか持たず劇場で鑑賞しました。ナレーションは一切なく説明は入りません。ある日ひとりのディレクターにより報道部にカメラが据えられると突然撮影が始まります。劇中冒頭では「取材対象にねらいを説明するのが筋だろう」と報道部デスクに食って掛かられる不穏な場面もあります(カメラを据えたディレクターが所属するのと報道部とは同じ局内の別部署という関係になります)。
テレビが凋落しつつあると誰もが思っているなか、いったい現場では何が起こっているのか? 

やがてカメラは三人の人物を主旋律とします。
一人は温和で優しい顔立ちが印象的な福島アナウンサー。「この春からお前推しでいく」と夕方帯のニュースでメインキャスターに抜擢、彼の顔を全面にあしらったポスターが地下鉄や社屋正面や街中に貼られます。
二人目はジャーナリズム精神に満ち海千山千の報道マンといった雰囲気の澤村。しかし彼はフリーランス、いわゆる派遣で局のなかでは実は不安定な立ち位置です。
三人目はこれも派遣でやってくる新人のまだ若い、渡邊。業界自体に不慣れな彼は食レポもぎこちなく、どうあがいてもこの業界で自分の仕事をやれそうには思えません。
テレビ局という捉えどころのない巨大な何かがその三人を手掛かりに少しずつ輪郭を露わにするかと思いきや、大小さまざまな事象の波が押し寄せ、見るものが理解しカテゴライズしかけた何かをすぐに奪いさっていきます。
「共謀罪」と呼ぶか「テロ等準備罪」と呼ぶかによって局が与党に肩入れしているのか権力の監視者として務めを果たそうとしているのかが判る、といった澤村は、「共謀罪」と書いたニュース原稿をデスクに「テロ等準備罪」と書き換えられても対抗する手段がありません。働き方改革が叫ばれ残業を制限せよと36協定が持ち出され、それをカバーする目的で呼ばれた渡邊なのですが、不慣れな彼は戦力となるどころか結果を出そうと焦り裏目に出てスタッフの足を引っ張ります。
「いいものを作りたい」しかし「時間がない」、「報道の使命を果たしたい」しかし「人手が足りない」。多くの企業が抱える問題と同様のことがここでも起こっていました。本来なら仕組みを改善し弱者を救えと声を上げる立場の報道がまったく機能していない現実を目の当たりにすることになります。

ニュースの質は問わない、他社が報道しないものを流すこと、他社よりはやく流すことを一義的に考える。
何のためのテレビなのか、といった問いを口にする場面がありました。『リチャード・ジュエル』を先日観たばかりの僕の頭のなかで出来事が呼応します。上場企業に勤めていた頃、僕も多くの人と同様に、企業が「永遠に成果を上げ続けることを宿命づけられたブレーキのない自転車」である怖さと不可解さを感じていました。既視感のある場面がいくつも出てきます。誰が得をするとも思えない必達目標、空虚な上下関係、コンプライアンス、不寛容、…

なかなか生の声を伝えられない福島に、本人も周囲もキャスターとしてもどかしさを感じています。なぜもう一歩踏み出し自分の声で意見を述べられないのか、自由に喜怒哀楽をのせてニュースを伝えられないのか、と。
その答えが、映画が中盤にまできて判ったときには、予感していたことといえやはり慄然としました。一年という契約のなかでもがく渡邊の末路に、そりゃそうだよな、と思いつつもそれでいいのか? という納得のいかなさも感じます。
ここで起こっている出来事はいまもどこかで起こっていることであり、それが行き着く先はこのタイトル通りなのではないか、…。

さまざまな場面、エピソードが観たあとも蘇り続けてきます。テレビには特別な闇があるとかないとかいうよりは、すべての企業が抱える理不尽さがただそこにあり、そしてそこで仕事をする人たち誰もが幻のような何かに縛られ、恐れながら生きている。
何かしらの言葉で『さよならテレビ』をまとめることは出来ません。世界を一言で説明することが到底無理なように。ただそこにあるものを少しだけクリアにして目の前に提示してもらった。そんな印象しかいまは述べることが出来ないのですが、それだけ、大変なものを観たという気もしています。

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