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『アシュラ』/悪人と、正義のふりをした悪人しか出てこない(映画感想文)

好きな韓国映画はたくさんあるが、本当にはまるきっかけになった一本は『アシュラ』(16)。監督はキム・ソンス。
架空の街アンナム市は悪徳市長のパク・ソンベに牛耳られている。表向きはさわやかで理知的、スマートなふるまいが板に着いた人物だが裏では敵対するもの、邪魔なものを顔色ひとつ変えることなく始末するよう命じる男。自分の兄貴も平気で裏切り、世論操作のためにはカメラの前で自身の身体を傷付けることも厭わない。
そのパク・ソンベに使い走りのように使われている刑事のドギョン。職を辞して自分のところに来い、と市長に誘われている。妻が市長の妻の妹で市長とは義兄弟。市長に不利な裁判の証人を知り合いのチンピラに襲わせ証言を撤回するように命じたりもする。
まだ若い刑事のソンモはそのドギョンの弟分。ドギョンを兄貴と慕い彼に憧れている。
市長の元へいくために署に辞表を出したドギョンのもとへ男が、証人の証言撤回の件について訊ねにくる。チャンハクというその男は検察の捜査官で職務に忠実。そしてそのチャンハクの後ろには検事のキムがいるのだった。悪人を捕まえるためなら手法は問わない。行き過ぎた正義、というよりは彼の用いる手法も非道徳的な、悪に対する狂気の悪なのだ。暴力や脅迫といった方法で彼はドギョンに市長の不正の証拠をつかんでくるように命じる。
悪徳市長と狂気の検事の間にはさまれたドギョン。

…というのが筋書き。「全員悪人」は北野武の映画『アウトレイジ』(10)のキャッチだが、いやいやこちらの方がそれを上回る全員悪人ぶりだ。なにより正義を司る検察までが狂っているのだから
お国柄なのか警察の不正を描いた映画や、悪徳警官の登場する作品が韓国には多い。一般的な作品のなかでも警察はあまり生真面目で職務に忠実には描かれない。
先月、梨泰院で起こったいたましい惨事の際にも「警察の指示など基本的には聴かない」という認識が一因になっている、という識者のコメントがあった。実際のところは判らないが当然韓国にだって職業意識の高い優れた警官、刑事はいると思う。だが、事件後の調査の続報を聞いていると、やはり日本とはその位置づけが些か以上に異なるのかな、という気もする。日本の警察は優秀だといわれて久しいが、それは日本人全体が比較的警察に対して畏怖と尊敬をもって日常を過ごしているからだ。こういった韓国の体制事情を念頭に観ると、やりたい放題の市長に毒を持って毒を制すがごとく同様の手法で臨む検事というのも彼の国には本当にいそうなのだ。小銭を稼ごうと小さな悪事をはたらく刑事も同じ。日本人のそれとはまた違ったリアリティがある。
暴力も脅迫も違法捜査も正義のためならいとわない、この検事を演じているのがクァク・ドウォン
舞台で鍛えた演劇力をもとに一気に実力派悪役俳優として名を上げるも『哭声』(16)では一転、真面目な駐在で事件に巻き込まれる素朴な父親を演じ、のちには『KCIA南山の部長たち』(20)では70年代後半の混乱した時代の韓国中央情報部の幹部で、韓国を裏切り米国で情報部不正を告発する大物役を演じている。これがまた胡散臭い。
悪徳市長はまたしても(!)ファン・ジョンミン。この『アシュラ』(とやはり『哭声』)で彼の名前を僕は鮮烈に頭に焼き付けたのだが、以降僕はすっかりハートをつかまれてしまい、いまでは熱烈なファン・ジョンミンファンである。いや、ほんま、この人スゴい。ニュー・マフィア映画とでもいおうか、韓国版ヤクザ映画の大傑作である『新しき世界』(13)ではショーケンを彷彿とさせながらもプラス・実力、根性、仁義を感じさせる男なら誰しも惚れるに違いない実力派の兄貴分を演じ、『哭声』ではあやしい祈祷師、『工作/黒金星と呼ばれた男』(18)では中間管理職的スパイ、20年の『ただ悪より救いたまえ』では凄腕の元殺し屋で、自分が殺めた悪者の一臂狼に追われながらも元妻の娘を非情な人身売買組織から救いだしにむかうという役をやる。しかもテレビドラマではさわやかでちょっとイケてない男を演じてラブ・ロマンスもこなしてしまうのだ、・・・。
そして主役は、チョン・ウソンである。

阿修羅とは仏教に登場する守護神であり戦闘を司る鬼神でもある。仏教において衆生が輪廻転生する世界は6つあるとされ、最上級のものから天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道という。人間道の下にある修羅道に阿修羅は住み、そこは終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界だ。そのことを知ってあらためて『アシュラ』を観ると、利己的な欲望に端を発して平穏を破壊する彼らのいる場所、ドギョンの見ている世界はいかにもこの修羅道だ。引き返す術はない。悪人と、正義の仮面を付けた悪人とが争っている世界
映画に限らず常に感情を爆発させ、おくゆかしさよりは情熱を、後退よりは人の前に出ることをよしとする国民性の反映なのか、映画の登場人物たちも作り手たちも常にレッドゾーンの振り切りぶりだ。観て以降、劇場で映画を観る度、それがどの国の映画であっても(アクションやサスペンスであるなら)『アシュラ』と比較しながら観ている自分がいる。過激でエモーショナルなこの一本の傑作のせいで僕のなかの基準が変わってしまった。

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