見出し画像

『イニシェリン島の精霊』/ある日突然終わってしまうかもしれない(映画感想文)

『イニシェリン島の精霊』(22)を観た。

マクドナー、激しく怒っている、…と僕は受け止めたが、あまたあるネット上のレヴューや批評では誰もそうは思ってないみたい。

劇作家でもあるマーティン・マクドナーには、アイルランドの西岸に位置するアラン諸島を舞台とした演劇三部作がある。『イニシュマン島のビリー』(96)、『ウィー・トーマス』(01)、そして『イニシェア島のバンシー』だがこの三作目は未上演。作家本人の弁によると「失敗作」。二作目の『ウィー・トーマス』はINLA分派の理性に欠けたリーダーが愛猫を殺されその犯人を躍起になって探し回るブラックコメディだ。INLAはアイルランド国民解放軍のこと。

70年生まれのマクドナーは、両親がアイルランド人で生まれはロンドン。イギリスとアイルランド両方の国籍を持ち、20代の初めからはアイルランドにもどった家族と別れてロンドンに残り、貧しい生活を強いられている。かといってアイルランドに肩入れすることはなく、むしろ批判的に描くことが多い。『スリー・ビルボード』(17)を観ても判るように風刺や、悪意に基づかない(韜晦にも似た)皮肉が作中に盛り込まれているので、鑑賞者を選ぶ。どちら寄り? といったくだらない立場へのカテゴライズを一切寄せ付けない作風でもある。

『イニシェリン島』の予告を最初に劇場で観たときは「中年男がマジ喧嘩?」みたいなコメディ調のイメージだったと思うが、記憶違いだろうか。 「予告を観て暗そうな感じがした」という人が結構いるのだが、…。

実際の映画は暗くない。だが重い。重いのに暗くないところがスゴ味でもある。これだけ重い普遍的なテーマを何も起こさず飽きさせないで109分の作品に仕上げている。何も起こらないが目が離せない。敵も登場しないし情熱的な愛が語られもしないのだが、人の心がどうなるのか、なぜそうするのかが判らないということに惹きつけられる。いや、なぜそうするのか判らない、ではなく「そうそう、判るよ!」が常に相対する真逆の二人への共感として生じ、観ているこちらは振り子のように感情移入の先を揺らしながら見ることになる

閉鎖的で退屈で娯楽がビールとゴシップしかない島において、音楽的教養を持つコルムと、島以外の世界があることさえ想像できない凡庸で無教養な男パードリック。コルムがパードリックに絶交を宣言したところから物語は始まるのだが、その理由も最初は明かされない(コルムがこういう人物で、パードリックが、…といま僕が書いたようなことさえ最初は判らない、というか見終わったいまでさえ本当に彼らがそういう人物だったのか自信はない)。それぞれの人物像をこう書いてしまうと、まあ絶交するよな、と思わなくもないが本編はそんなに安易ではない。なのに、思い当たる節が山ほどあるのだ!

コルムが求めるものは理解できる、しかしその求め方は人として正しいのか? パードリックは無神経だ、でもその無神経さは人の持つある温かい(言葉にしようのない)部分の発露なのではないか? …この繰り返し。それぞれが選択する行動に対しても「そやな、わかるぞ」と思うこともあれば「そりゃ行き過ぎだ!」と咎めたくなることもある。そうして感情を振り回されながらも時間は経過し状況はエスカレートしていく、…。

描かれているのは価値観のズレであり、誰が正しいといった答えは用意されていない。

ただひとつだけ、なぜある人物が自身の残された時間に思いを馳せるようになったのかは万人が共通に考えるべき事案だと思う。最近の若い人がタイパだ、とかいって映画を早送りして観るようなくだらないこととは関係がない。

自分の残された時間を有意義に過ごしたい、と考える者は、島に迫りくる内戦の拡大の危機を想像している。一方の、人生とはそれほど有意義なものではない、といった態度の側は、身近に迫っている戦火について何も知らない。判っていない。判っていないがゆえに「いつか人生が終わる」ことも「いつか人生が思いもよらないほどはやく、強制的に終わらされるかもしれない可能性」についても、指摘されたところで理解ができない。前者を強迫観念的で悲観的過ぎる、後者を問題意識に欠けた危機意識ゼロの無能だ、と批判することは容易いが、前者は時間を悠久として捉えたとえ一瞬の人生であっても教養や文化によって豊かにすることができると判っている人物であり、後者は人の心の打算や功利に基づかない善意を無意識の心にもっている人物である、とみることもできる。

結局のところはいずれも人である。しかしその人同士がたがいへの歩み寄りを、そして配慮を怠ったところで悲劇は起こる。そういうことをこの映画は語っている。

かつて失敗作だ、として葬った作品がどんな内容であったかを僕は知らない。ただそれを十数年を経て演劇から映画へトランスフォームを施し完成させなければならなかった理由がマクドナーにはあったのだと思う。それがコロナ、あるいはウクライナへの侵攻という「日常を強制的に終わらせかねない」何かへの危機感であった、とみるのはうがちすぎだろうか。いや、僕はけっしてそうは思わないのだが。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集