『月』/本当のことをいわなくてもいい。判っているから、(映画感想文)
深い森の奥にある重度障害者施設に、非正規雇用職員としてひとりの女性がやってくる。
彼女の名前は堂島洋子。かつて著名な文学賞を受賞し売れっことなった有名作家だが、ある出来事以来小説が書けなくなった。その夫、昌平もほぼ無職。経済的なピンチにくわえ、家庭では二人がたがいに腫れものに触れるかのような気遣いをしている。
施設では職員たちによる患者への心無い扱いが日常化していた。重度障害者の相手はキレイごとでは通用しない、というのが暗黙の了解としてまかりとおっている。
施設には若い女性職員もいて、そのひとり坪内陽子は、洋子が有名作家であることを知っていた。彼女もまた作家志望で、新人賞へ投稿を繰り返しながらも一次選考を通ることもなく落選し続けている。作家志望の陽子が施設ではたらくのは小説の題材を探すため、…キレイごとではない、隠蔽された現実を見るため。
もうひとり、施設には特長のある人物がいる。「さとくんと呼んでください」と誰に対しても明るくふるまうその青年は、絵が上手く、紙芝居を自作し患者たちに見せるなど献身的だが、ひとりだけ努力するその姿勢は他の職員たちには疎まれている。患者たちにも彼の誠意が伝わることはない、…。
原作は2017年に書かれた辺見庸の小説だが、映画化するにあたり大幅なアレンジが施されている。映画がスポットを当てるのは、書けなくなった作家・堂島洋子とその家庭、彼女の内面だが、原作には登場しない。ほぼ映画オリジナルとみていい。
もととなっているのは16年に神奈川県相模原の施設で起こった大量殺傷事件だ。だが、映画が中心に据えて描こうとしているものはもう少し違うところにあった。
映画『月』は、大量殺人を行った犯罪者や事件そのものをただ描いただけの映画ではない。
劇中で繰り返し語られるのが「本当のこと」「都合の悪いことは隠蔽されている」だ。
作家志望の陽子は子どもの頃、厳格な父親に殴られながら躾けられた。しかしその父親が何人もの女性と浮気をしていたことを、大人になったいまは知っている。父には裏表があった。母も、そのことには何もいわない。本当の汚い部分から目を逸らして生きているという点では、陽子から見れば母もまた隠蔽の片棒を担いでいる。
社会には「隠されていること」が多くあり、彼女は「本当のこと」を見たい、知りたいと思っている。自分が本当のことを表現すると心に決めている節がある。
ネタバレにならないようにしたいのだが、この「本当のこと」に劇中の人物たちは心を揺さぶられ続ける。「本当のこと」を隠していていいのか、あるいは告げていいのか、がモチーフを変え繰り返し観客の眼前に提示される。そのたびわれわれは、「本当のこと」に対しどう振舞えばいいのかを考えさせられることになる。
16年に事件を起こしたその人物が「重度障害者は社会から隠されている。誰もが見て見ないふりをするくらいなら失くしてしまえばいい」と考えていたのかどうかの検討をここではしないが、映画のなかの殺戮者は「どうせ心がない。本人にしても生きている意味がないだろう」と判断を下し殺害を決行する。
紙芝居を見せても無反応という挿話は大変効果的で、さとくんが誠意をもって接しても相手はノーリアクションで感謝も、賞賛もない。彼らは人と接することのできない、孤立した存在だ。だったら、いなくなってもいだろう。手間とコストがかかるばかりで社会にとっては無駄だ、といった考えにさとくんが至るのは、やはり彼らが社会から隠されているからだろう。
なぜ隠すのか、それはそばにいられると都合が悪いからだ、というのは当然短絡的なのだが(それぞれの家庭の事情や個々の気持ちを斟酌できていない点で)一応筋は通っている。そう感じた時点で、自身の内面の二つの気持ちに観ているわれわれは気付かされる。
ひとつは、施設を含めわれわれが社会的に障害のある人々にどう接しているかといった自省を含む気持ち、そしてもうひとつは、さとくんのモチベーションに同意してしまっている自分のなかに、都合の悪いものなら排除してもいいのでは、という考えに結びつく気持ちがあることに。
「障害者も大切にするべき」というのはキレイごとではないのか? という問い掛けもまた別の形で映画のなかには用意されている。一見健全に思える穏やかな思想も、自身の現実として起こった場合に本当に受け入れることがあなたにはできるのか、と。
この映画、なかなかシビアに鋭い問いを突き付けてくる。
「本当のことを隠蔽する(この施設の)やり方は間違っている」と誰もが思うだろう。
しかし、では「常に本当のことを明るみに出し続けることが正しい」のか、という疑問もはたと湧く。
「本当のこと」に憧れを抱く作家志望の陽子がだんだん不気味に感じられてくるのもその点で、彼女はいったい「本当のこと」の何に惹かれているのだろう? 何を判っているのだろう、という不安と彼女の姿勢に対する懐疑がひろがっていく(これはもしかしたら個人の感想かも、…と一応書いておく)。
何かを隠すものに対し陽子が批判をくわえる場面があるが、その姿は、ネットでなにもかもを知ったつもりで手酷く批判する匿名の人々と変わらない、と思った。かつては、誰かを責め立てることでストレスが発散する一部の歪んだ寂しい人たちがそうした誹謗を行っているのだろうと思っていたのだが、いつからか、「自分は正しい」と思い込んでいる大衆が、自身の正義を疑うことなく声を上げるようになっている。なぜ彼らには、自身の意見が間違っているかもしれない、と検討する余裕や謙虚さや自分と異なる考えを受け入れ慮る気持ちがないのだろう。
「隠すもの」は陽子にとっては絶対的に悪でしかなく、なにもかもを白日の下に晒そうと彼女ははたらきかける。「隠そうとするもの」を糾弾する彼女には、「隠す人々それぞれの事情」を考える余裕が、…能力がない。自分のことで頭がいっぱいで(それは劣等感と妬みなのだが。小説を認められない彼女もまた弱者なのだ。このつまらない世界から抜け出す手段は小説で認められるしかない!)他人の心までを理解しようと思うことさえできない。
主人公の悩める作家・堂島洋子の夫、昌平を演じるのはオダギリジョー。
彼こそが、この映画のなかにおいて希望を託された人物だった。もとより洋子より繊細で傷つきやすい彼は、妻が書けなくなった出来事以来、だめな人間になってしまった。しかし彼には、他人が隠す気持ちを理解し、隠したものをいたわる心がある。それだけでなく、どうしてもいえない(隠したい)相手の気持ちを察し、いわなくても理解し、それを受け入れ許すことが彼にはできる。
何かしらの正論や答えを映画は出さないが、ただひとつ、いわなくても判り合う人と巡り合える幸せだけははっきりと示されていた。そういった相手と出会えるのは運? そうかもしれない。しかし自分がそういった、他者の気持ちや事情を慮る人であろうとすることは、運ではなく意志だと思う。