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『どうすればよかったか?』/何もしないことは卑怯だ(映画感想文)

研究者の家庭に生まれた聡明な姉は、何度かの受験失敗を経て医学生となるが、1983年、24歳のときに突然、意味不明のことを大声でわめき出す。一時は救急車で病院へ搬送したものの「正常」との診断で帰宅。症状は改善されることがないものの、父と母は「姉は病気ではない」の一点張りで受診させようとせず、その日から異常な生活が始まる。
監督の藤野は姉より8歳年下(姉の発症時16歳)。奇行と奇声の生活のなかで「姉ちゃんをお医者に診せるべきだ」と思いながらも両親を説得する言葉を持たず、世間から姉を庇護しているつもりなのか、遠ざけているのかよく判らない家庭のなかで居場所を失い家を出る。ただ、いつか姉を受診させるときのために、あるいは記録として残すためにカメラを回し出す、…。

藤野知明監督のドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』(24)を観た。
冒頭、「姉が統合失調症を発症した理由を究明することを目的としていない」「統合失調症とはどんな病気なのか説明することも目的ではない」のテロップが挿入される。
これについては「現段階で統合失調症になる原因が判明していない。映画のなかで、原因を推測しても根拠がないままになってしまう。また、撮っていた映像を映画にするとなったとき、姉の主治医のひとりに相談に行ったのだが、協力はできないといわれたことも」と監督は語る。
「自分としては統合失調症についてではなく、これは家族についての映画なのだが、観客はそれとは別の意図で受け取るかもしれない。それはあらゆる表現について言えることだが、主治医が(素人が統合失調症について語る危険性を)感じたことにも一理あると思い、あらかじめ『統合失調症について説明するものではない』といれた」のだと。
確かに劇中では何も解決しない。タイトルどおり、どうすればよかったのか、という疑問というよりは納得のいかなさとモヤモヤとした苛むような気持ちだけが観終わっても残る。
ドキュメンタリー映画を観たあとは、問題が明確になったような気持ちや、自分なりに新たな見地や意見を持って劇場を出ることが多いのだが、この『どうすればよかったか?』はなんともすっきりしない。
いや、別に統合失調症について何かしらの解決や提案がほしかった、ということでもないのだけれど。

扱われているのが「ひとつの出来事」ではなく、ある出来事が僅かながらも影響を及ぼし合い、結果としてひとりの人間の一生を取り返しのつかないものにしてしまう、という長く緩やかな「どうにかできたのではないか」問題、だからだろうか。
賢く、親の言うことをしっかりと聞き、少しロマンティックなものに憧れる面倒見のいい姉が、異常を来した挙句、こうも儚く死んでしまうのをどこかで止めることができなかったか、というこのやるせない思い。姉の死は寿命といえばそれまでであり、統合失調症とは関係のない病死だが、あまりにも無意味で、こうも閉塞感のある寂しい一生を彼女が送ることはなかったのではないか、と思わせるものがある。

姉弟の両親は、大変優秀な研究者だった。
姉が精神の問題から異常な行動を取ったとき、しかし病院から連れ戻してきたのはその両親である。合理的な判断ができる筈のこの親たちは、なぜ自身の娘に対し冷静な判断ができなかったのだろう。
監督の藤野は、たびたび両親に、姉をお医者さんに診せるべきだ、と提案する。
だがその度に返ってくるのは、「お姉ちゃんは病気じゃない」「お医者さんはだいじょうぶだっていってるの」「そんなことをしたらお父さんが死んじゃう」「お母さんは、病気じゃないって反対しているんだ」と拒否する解答である。
母は「お父さんが診せなくてもだいじょうぶだっていってる」といい、父は「お母さんが反対するからな」というのだが、本当はどうなのか。藤野の問いに対し母は「信頼できるお医者さんに診せてる。あんたには判んないでしょ」と挙句ウソまでつく始末だ。両親もおかしい。「お姉ちゃんは、親を困らせようと詐病であんなフリをしているのだ」とまで口にする。
なぜ、彼らは彼女を医者に診せないのだろう?
のちに監督は「両親は自分たちで何とかしなくてはならないと思っていたのかも。通院歴があれば姉の国家資格が通らなくなるとか、研究者としての道が閉ざされるかもしれないということを心配していたのかもしれませんが」と述懐しているが、それにしても、だ。精神を患ったことで社会的に差別や偏見を持たれると考えた可能性は? という問いにも監督は「あったと思います」と解答している。

どういった理由で姉が発症したのか、そこに至るまで藤野家で何があったのか、は詮索しても仕方のないことだが、対応についてはやはり間違っていたとしか思えない。ではどうするのが正しかったのか。素人の僕としては「専門の医者に、…」としか答えられないが、その素人の僕にしてからが「精神科のお医者さんや薬のマッチングは容易に上手くいって必ず解決できるものばかりではない」と思っている。専門的知識を有する藤野の両親なら、ましてそうだったのか(特にいまよりも昔の出来事でもあり)、と思わなくもない。
だが、そうしている間にも姉はおかしくなり、彼女の若い時間も失われていく
後年、姉に診察を受けさせるときがくるのだが、薬を処方された彼女はそれでめっきり落ち着いたように見える。もっとはやくにそうしてあげればよかったのに、とあらためて怒りも湧く。何に? 親の無理解か、事なかれの問題意識の欠落
あるいは、体裁

姉はとてもチャーミングな人だった。
精神ではなく肉体の病気であれば、親は、どうあっても専門の医者に委ね救ってほしいと願うだろう。
劇中で引いたシーンがひとつある。それは姉の葬儀の場面だった。悪趣味だ、と思った。
だが、ここまで感情も結論も断定もせずにただ「どうすればよかったのか」と誰を責めるでもなく問い続けていた監督が、あえてこの場面を入れたのは、この葬儀の際にあまりにも許せない一言を父が口にしたからだという。父は姉の棺を前に「姉の人生はある意味、充実していた」といった。それは統合失調症だったことをなかったことにして、父親が自分のなかで都合よく事実を書き換えたものだ、と藤野はいう。「だから姉の最後を撮ることにした」と。

親ガチャという言葉を「くだらない」と僕がいえるのは、僕が無自覚にアタリを引いているからなのだろう。責任転嫁だ、問題の無効化だ、と思いはしても、見回せば確かに「ハズレ親」は世間にいて、教養を与えられないまま大人になる恵まれない子どもが確かにいる。「負の再生産」などと書けば批判を浴びるのだろうが、そんなことは起こっていないとでも?
親がインテリであっても資産家であっても、ハズレは出る。親がハズレの判断を行う可能性がある。ハズレ親であっても環境や親以外に出会う周囲の人びととの関わりで乗り越えていってほしいとも思う。
だが病気や事故といった重篤な出来事が発生すれば? なにもかもをかなぐり捨てて対応できる親と、自己保身や未熟な判断に溺れて誤る親とがいるに違いない。その判断の差こそ、親ガチャだ。
子どもを育てるということは、自身の教養に覚悟を持つことだと思う。
子どもだった藤野監督は「このままではいけない」と思っていた。だが親は姉をそのままにし、弟の思いを封殺し、そして何の解決を図ることもなかった。反省も後悔もしているようには見えない
母が亡くなり、姉が亡くなり、父と息子と二人だけが残されたいま、映画の公開について語る親子二人は、裁く者と裁かれるものとに似て見えた。だが裁かれる側は、いまだに自身の正当性を信じ、息子を欺けていると思っているのかもしれない。ひたすら醜い。


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