『welcomeback』/人の心をかき乱す(映画感想文)
ボクシング映画にハズレなし、と思っている。
なぜなのか。物語のベクトルの向きの力強さ、その矢印がこれ以上なくシンプルであることに加え、結果がどうなるのか本当に判らないということもある。他の競技を主題に扱えばラストまで勝利に向かい続けた主人公たちが「敗北して」終わるということはありえない(ご法度なのでは、という気さえする)。それじゃ、ここまでは何だったんだ、と肩透かしを食った気になるかもしれず、虚しさにすべてをご破算にされたと思うかもしれない。
だが、ボクシングだけは違う。
結末で主人公が強烈なパンチをくらいノックアウトされ、無様にリングに横たわり散ることになっても(創造された物語として。現実のボクシングではなく)それを観ている僕はけっして莫迦にされたとも空しいとも思わないだろう。なぜなのか。
そういうものだと思っているだけかも知れない。大切な何かはリングに上がるまでの過程にあり、「勝てる」と確信するに至るまでの努力は双方がしてきたに違いないからか。どちらが勝つも負けるもあり得る。勝敗とは別のところにボクシングの魅力(それはいま書いたように、リングに上がるまでの日々に)ある、とただ僕が思っているからなのかも知れない。
そして、たとえ勝ったとしても、あるいは負けたとしても、何かしら訴えかけてくるものがまたそこに存在すると思うのだ。
栄光、敗者の美学、勝利してもそれが終わりではなく、ただの通過点でしかないことを取り巻く誰もが理解しているということ。
(そうだ。ボクシングという物語に関しては、勝って終わりという気がしない。勝利はリセットされ、新たな次の戦いがただ始まる)
これらは僕が勝手に抱く個人的なボクシングのイメージなのかも知れないが、とにかくこの競技を描いた物語の終わりにはシンプルにどちらかしかないのだ。そして、どちらも起こる。
今年の2本目は『welcome back』。監督は川島直人。
新人王最有力といわれているボクサー、テルには幼少の頃から団地でいっしょに暮らす弟分のような存在がいる。ベンだ。ベンは(多分)発達障害で、知能は幼児程度しかない。与えられた指示は緻密に守り、人並外れた記憶力を誇るが、日常のルールが破れるとパニックを起こす。現実社会のことを知らず、生活するうえで必要な常識はない。当然、臨機応変に物事に対応することはできない。
そのベンにとって、テルがリングの上で勝つことは当たり前、変わることのない規律の筈だった。
だが、そのテルが西日本新人王の北澤にあっけなく負ける。テルはボクシングを辞めるが、ベンにとってそれは「当たり前」ではない。北澤を倒さなければベンの日常は回復しない、…。
と、こう書けばテルが復帰し、ベンのために再起を誓い、北澤に挑戦する、と思われるだろう。それがボクシング映画の王道の筋書きだ。だが『welcome…』はそうはならない。「え?!」と思う展開が用意され、そこからこの映画はボクシング映画というカテゴリーを逸脱していく。賛否の分かれるところだ。何より、リアリティがない。んな、莫迦な、と思わなくもない。
詳しく書くのは控えるが(公式hpではそれらしい展開は既に書かれているが)、そこからの出来事は僕にとってはファンタジーだった。だが、おもしろくないかといえばそんなことはない。小説であれ映画であれ、発想は自由だ。胸のすく展開は大歓迎。マジで!? と唸らせてほしい。
なにより、ボクシングを扱った物語なのだから。そこでは何だって起こる。だが、突拍子もない夢のような展開に胸が躍るためには、鑑賞者(や読者)の心に物語がリアルに迫ってこなければならない。冒頭、テルがリングに上がる試合の場面を讃えるコメントも多いようだが、僕はそれほどでもないと思った。
くわえて、『welcome…』はボクシングを描く上で欠かせない、ウエイトの扱いや「ボクシングだからこそ」の細部のディティールがやや雑だ。ボクシングを扱う創作作品のなかでしばしば語られるのは「それがボクシングなのか、ただの殴り合いなのか」といった問題だが、細部の条件や設定を(たとえ匂わす程度であれ)展開に盛り込まないと、それはただの「殴り合いの物語」になってしまいかねない。
どこまでボクシングというものを踏み込んで極めようという意思が監督にあったのか、あるいはそこは逸脱しても、ダイナミズムを活かすうえで、あえて無視するというねらいだったのかは判らないが、科白や少しの挿話を入れることで、この夢のような展開にさらに、リアルとダイナミズムのコントラストを持ち込み、盛り上げることが出来たのではないか、と個人的には思う。
(ただ、北澤だけは劇中で終始ボクシング映画としての匂いを醸し出していた。そのストイックな佇まいゆえなのか、シンプルな言動がそう思わせるのか。この男が出てくると場面が引き締まった。演じるのは宮田佳典)
だが、『welcome…』が僕にとってはボクシング映画でなかったからといって、それが作品としておもしろくなかったかどうかとなると、それはまた別の問題なのだ。
先に「これはファンタジーだ」と書いたが、そうして観ると、この作品はおもしろい。着眼があまい、ご都合主義だ、というのは簡単だが、しかし決着は少しもご都合主義的ではなく、あまくもない。
ボクシング映画としての結末(主人公が栄光をつかみ取るのか、無様に敗北するのか)はないが、だが、それと同様の、いやそれを越える、コントラストの利いた結末がこの映画には用意されていた。こんなに悲しい終わり方はここ最近観た覚えがない。
なにゆえ、ここまで監督は冷徹な終わり方を選んだのだろう、…?
勝手な一鑑賞者の考察を述べれば、終始テルは軽薄で嫌なヤツだった。だが、ベンにとっては魅力的でいい兄貴分だった筈だ。二人は上手くいっていた。二人だけは。これは、その二人の拙い蜜月の終わりを象徴しているのだろうか。かもしれない。
あるいは、前向きに突き進もうとした者と違い、一度の挫折で投げ出してしまった者への罰なのだろうか。監督には、最初からその意図があったのだろうか。敗者には二重の意味がある。試合に負け、そしてさらに人生にも負ける。そういった二重の負けを選択してしまった者には救いがない、と。何かに負けても、果敢に挑む姿勢があれば、どこかに辿り着く日が来るのだ、と。
うがった見方はいくらでも出来る。それだけこの結末には人の心を搔き乱すものが多くあり、意表を突かれ、愕然とはするものの、誰もが心当たりのある終わり方でもある。
その点で『welcome…』は傑作だった。
薄っぺらなテルのステレオタイプの造形にあきれながら、ボクサーを描くディティールのあまさに不安を抱きながらも、最後まで観てよかった。
最後にひとつ書きたいことがあって、こうした首を捻るような点がいくつかありながらも、俄然映画がおもしろくなるのはある人物が登場してからだ。この映画がボクシング映画ではない「ある別の種類の映画」として動き出すきっかけとして、三人目の人物、青山という少し年嵩のボクサーが登場したところからだ。
物語を進める上で用意された狂言廻し的役割ではあるが、この人物があまりにも魅力的で、彼が登場してからは安心して観ていられた。演じるのは遠藤雄弥。彼のふるまいもファンタジーだが、僕はこういう人物が大変好きなのだ。
作品を書いていて、脇に配したメインではなかった筈の人物が、思いもしなかった輝きを発し、物語のなかで作者が想定した以上の役割を果たしてくれることがある。もとより青山は重要な役ではあるが、当初の意図をはるかに超える、いい役になっていたのではないか、と勝手に想像している。
あと(もうひとつ)、この映画、ときどき不意に、素晴らしく映画的なカットが現れ、その度に息を飲んだ。名古屋だかの立体駐車場のカットなど、あまりに美し過ぎて、それゆえ結末の寂しさに、なぜなのかと思ってしまう。