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『愛を耕すひと』/信念か、愛か(映画感想文)

これまでにもう何度も書いているが、マッツ・ミケルセンという役者は、僕にとっては「人の理想形」なのだ。人間のイデアといおうか。
彼が世間に広く知られるようになったのは『007/カジノロワイヤル』(06)だろう。彼はここで、英米に馴染みのない東欧的風貌を買われ、悪の組織の財務係を演じ、ボンドとカードで対決する。血の涙を流すという設定とボンド史上屈指の痛みを伴う拷問シーン(原作には似た場面があるがこのシーンに関しては映画の方が容赦がない。)のせいでか、異形の悪役として、新たなタイプのヴィランとして印象を残す。
これ以前のフィルモグラフィを拾えば、デビュー作となる『プッシャ―』では麻薬の売人を演じ、社会から疎外された人物、ギャングのメンバーなど強面の悪党に配役されながら、コミカルな人物も演じている。
その顔には喜怒哀楽も、人間らしい様々なものも詰まっているのだ。苦悩とか。
『カジノロワイヤル』で彼が演じたル・シッフルもそうだった。組織の金を株の操作で増やす。やり方こそ企業テロだが、これまでのボンド・シリーズに登場したような暴力的で破滅願望のある、ある種の劇画的な人物ではなかった。航空会社の株価を下げようと仕組んだ計画を阻止され窮地に立たされる。その穴埋めにカジノを利用しようとして再び阻まれる。なんとかして資金を増やさねば、と苦悩しながらボンドに対し憎悪を募らせる。その陰りのある横顔に浮かぶのは人間らしい焦りと苦悩だ。悪いやつだけど。
(この『カジノロワイヤル』の前年05年にミッツは『アダムズ・アップル』というブラックなコメディで主演している。仮出所した者を更生させるために引き取る田舎の教会が舞台。そこにネオナチの狂暴な若者がやってくる。若者に反省の色はなく神に唾する態度だが、牧師のイヴァンは温かく迎え入れる。悪い行いはすべて、その人ではなく悪魔の仕業だと考えるイヴァンは何が起こっても許すのだ。教会には他に酒浸りの前科者やパキスタンからの移民がいて、……という物語。無垢なのか狂っているのか判り辛い生真面目なこの神原理主義者の牧師をミッツは演じている)

『残された者/北の極地』(19)では、事故でただひとり北極圏の氷原に残された男の真摯なサバイバルを、『アナザーラウンド』(21)では、よくある家庭や仕事の悩みを抱えた平凡な高校教師を演じ、ちょっとした遊び心から教師仲間たちと僅かにズレた日常へ踏み込んでいく姿を見せてくれる。
そのときどきのミッツは、『残された者』であれば「人としてこうありたい」姿であり、僕はその強靭さに憧れを感じながらも、選択や行動の原理となる思想に感動を覚える。
『アナザーラウンド』であれば、「そうそう。そのちょっとしたことがストレスなんだよな」と共感を覚えつつ、躊躇しながらも彼らの選択に共感を覚え、そして美しく躍動感のある結末に人生において重要な神々しいある瞬間が、その手で切り開かれた一瞬を垣間見るのだ。

そのミッツ・マケルセン主演の『愛を耕すひと』(25)を観た。
舞台は18世紀のデンマーク。当時は国土の三分の一が作物の収穫できない荒れた大地で、王も宰相たちも諦めている。そんなところへ、貴族でもなければ縁故も何もない貧しいひとりの退役軍人が現れ「土地を耕したい」と名乗りを上げる。
「目的は?」と問われると男は「貴族の称号」と答える。それがマッツ・ミケルセン演じるルドヴィ・ケーレン大尉。王に仕えるものたちは彼の申し出を鼻であしらい、笑い飛ばす。だがルドヴィには目的と意志があった。

この映画、タイトルもそうだし公式も「愛に溢れている」とか、マッツ自身もプロモーションの動画で「愛を知る云々」とかいっているが、実はマッツ演じるルドヴィはまったく愛に興味がなく、そして(個人的な印象では)最後まで彼は愛についてなど考えていないと思う。そんなものがこの世界にあることさえ、彼は知らなさそうだ
もちろん惹句として「同じ傷を抱えた愛を知らない者たちが、共感し合い、互いに求めあう」というのは判らなくもないが、…。それだけを前面に打ち出し過ぎると、誤解を受けもするだろうし、別の大切なものを見失う可能性もある。
「人間のイデア」だと先に書いた手前、ここでもマッツが演じる主人公が真善美を体現していると言い切りたいところではあるが、どうだろう。ルドヴィにあるのは信念と勇気である。それと公平性。彼には偏見がない
たとえば作中タタール人の少女が登場するのだが、彼女との間に結ばれるのは(やがて親子の間に育まれる愛情の関係に似て来はするが)必要に応じた相互の協力である。貧しい彼女を守ってやりたいとか、慈しんでやりたいという感情はルドヴィにはない。ただ手伝ってもらいたいことがあるから、(悪くいえば)大目的のために彼女の存在を利用する。やがては彼女個人の良さが判り、自分にとって大切な存在であることに気付くのだが、それは物語が終わってからの大団円の一部であり、「愛」とはいい難い。
反面、この時代の多くの人間が彼女たちを蔑み、肌の色を見て「不吉だ」と疎外するのに対し、ルドヴィはそういった偏見の目で彼女を見ない。公平に扱い、個人として評価する。ルドヴィの少女への気持ちが「愛」ではないのは、彼は自身の目的や信念と彼女(だけに限らず誰であっても自分以外の人間)を秤にかけ、ときには切り捨てもするから。
しかし、だからといってルドヴィが冷徹や自己都合ばかりを優先する利己的な人間に見えないのはなぜなのか。

このあたりがマッツ・ミケルセンという役者の力であり、真骨頂なのだといいたい。
われわれは苦難や目的の達成に臨み、誤ったヌルい判断をすることがある。温情をかけたがために遂行できなかった。「義」よりも「情」を優先して窮地に立たされる。しかし、その面を見てわれわれは人間的だと評価し、その停滞や中断や諦めを許してしまう。
だが、それは(それこそが)本当に人間的だといっていいのだろうか。
信念を貫くことは人間的ではないのか?
 
この世に生を受けたからには何かを成したい、と思うのは当然のことだし、自分が生まれた意味を求め精一杯何かを果たそうとするのは極めて素晴らしいことの筈だ。ネット上で、誰にも届かない自己満足でしかない狭い正義を叫び、弱者(と勝手に自分が看做した誰か)に文句をいっているだけの態度を、人間としてくだらない、しょーもないヤツのすることだと、みんな判っている筈なのだ。
もちろん映画だからして、主人公の信念を挫こうとするものは並大抵では
ない。
だが、ルドヴィは苦悩を無表情の下に隠し(あたかも悩みや弱っている表情を他者に見せるのは恥だ、とでもいうように)、ただ寡黙に自分の信じた正しい行い、するべきことを履行しようと邁進する。
その態度がもう何ともいえず素晴らしい。

『愛を耕すひと』は物語の骨組み自体も大変映画的で一本、強靭な芯が通っているが、常としてあまり映画の細部まで知らないようにしている僕が、劇場に行くと決めたのは、「きっとこういった物語なら、見たいマッツが見られる筈」と思ったからだ。
荒涼とした土地に孤独に立ち向かうマッツ、…。想像しただけで、きゃーっ、ってなる。

肥沃と縁遠い土地に作物を実らせようとして単身、臨む。
協力者を求める。対立するものも出て来る。慣習に悩まされ、卑劣な人間も登場し、彼が信じる王の政府の人間たちも、どうせ失敗するだろう、よしんば成功すれば手柄はこちらのものだと、軽く考えている。
その土地は未開であり、もし何者かが住んでいるとすれば、それは無法の徒に違いなく凶悪だ。
タイトルから(過酷でも)美しい自然を背景にした甘い、ヌルいロマンスを期待して観に行くととんでもない。力強さと、ブレなさに打ち拉がれる。
「愛?そんなもん、オレには関係ないねっ」と思っている漢こそ観るべきハードな作品。ヒーローがただ自分だけを信じ、あらゆる理不尽に立ち向かう映画です。その姿に惹かれて「愛」が生まれ、本人も「人としてそれを与え合うのも大事かもな」と気付きますが、それはほぼ物語が終盤に入ってから。
やっぱり男って、…もとい、人間ってこうだよな。こうあるべきだ、とボロボロになりながらも東欧の至宝、マッツ・ミケルセンが思い出させてくれます。

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