『マイノリティ・リポート』/越えられない「父」を殺す二人の子ども(映画感想文)
『マイノリティ・リポート』(02)といえば、スピルバーグが監督しトム・クルーズが主演した作品だな、と多くの人は思うはず。
だが、「ディックが原作のあの映画ね」と思うかは、いささかアヤシイ。
最近、「『ブレードランナー』(82)がここまで好きなのは実は日本人だけなのではないか」と思っている。いや、ちょっと違うな。その原作者であるフィリップ・K・ディックを特別な存在だと考えるのは日本の映画ファン特有の傾向なのではないか、とでもいえばいいか。「今度の映画の原作はディックです」と聴いて期待する度合いが、どうにも本国アメリカ人より高いんじゃないかな、日本人の方が、…と思っているのだ。
「『ブレードランナー』以降多くのクリエイターがその世界観に影響を受け、・・・云々」という惹句を目にするが、日本人作家の生み出す作品群にその影響は色濃くとも、アメリカの映画作家たちは、それをひとつの一里塚としながらそれとは異なるアプローチを行おうと腐心している気がするのだ。必ずしもそれが成功しているとは限らないが、志の問題として。『ブレードランナー』をやりたいのか、それを越えたものを作りたいのか、と問えば、「いや、『ブレードランナー』? それほどでも、…」と返ってきそうだ。もしかしたらアメリカの映画人たちは、そんな古い作家が原作の古い映画を、と思っているのではないかしら。
冒頭からネガティブなことを書いたのは、ひさびさに『マイノリティ・リポート』を観て、ディックらしさ、あるいはディックに対する敬意のようなものをまったく感じなかったから。
別に、その一事をもってしてスピルバーグを責めようなんて気はさらさらない。僕はさほど熱烈なディック・ファンではない。
ただ、にも関わらずこの映画を観ていると、スピルバーグは「ディック」ではない別のある作家を意識し過ぎていると思う。原作はディックのそれなのに、スピルバーグはまるで別のある人物が考えた筋書きをなぞるようにして、この映画を作っている気がする。そこがなんともアンバランスで落ち着かない。まあ、いまさら僕が指摘せずとも多くの人が気付いているとは思うのだが、・・・。
はっきりいって、この映画はキューブリックの幻影に囚われたものの作り出すエピゴーネンだ。
無意識のうちに『2001年宇宙の旅』(68)をやろうとしている。
哲学的な意匠をまとったあの映画はもちろんスピルバーグの扱う範疇にないが、作り方のアプローチが、その未来像を再現するプロセスが、「きっとキューブリックならこうして『2001年』を撮ったに違いない」の集積なのだ。亡くなった師匠筋への憧憬、・・・喪失の埋め合わせを自分で代償行為としてやっている感じがどうにも拭えない。
キューブリックが亡くなったのが99年。スピルバーグは『AI』を2001年に撮っている。このときの心持については察するしかない。
キューブリックのもとで『アイズ・ワイド・シャット』(99)を撮っていたトム・クルーズが「マイノリティ・リポート」の脚本を目にしたのもこの時期で、それはのちに共同脚本としてクレジットされるジョン・コーエンの手に因るものだった。もともとのディックの原作は短い。それを解体し、要素だけを取り出し、多くのガジェットやエピソードを盛り込んで再構築され、出来上がったのは別人の手による、ほぼ別の作品だ。
『アイズ』の撮影中にその脚本を読んだクルーズはすぐにスピルバーグに打診する。「やろう」という返事は即座に返ってきた。二人とも、ディックに対する思い入れらしきものは存在しない。ディックの影は微塵もなく、気付いているかどうかは判らないが、二人の背後には常にキューブリックの影がゆらめている(・・・と思う)。
再三、「父がいうには」という科白も出てくるし、・・・というのは穿ち過ぎか。当然、彼らにとっての「父」はディックではない。
『マイノリティ・リポート』はSFアクションではなく、さすがにスピルバーグなのでサスペンスの体を成してはいるが、本筋の骨格はハードボイルドだ。これはさすがに『ブレードランナー』の影響だよな、…とディック・ファンなら考えたくなるもなるが、キューブリックの初期作品からの色濃い影響かもしれない。
事件に巻き込まれた孤独な男が、未知なる世界のルールを解き明かしながら死の現場へ決着をつけるために乗り込み、そこで陰謀に気付く。過程においてこれまで自分が信じていた善(正義)のシステムは信用できず、ときには悪の手も借りねばならない、という展開はまごうこと無きハードボイルドのそれだ。
プレコグの三人の名前がアンバランスだったのも、それに対する目配せだろう(と個人的には思っている)。
事件を予知する三人の名前が、アガサ(・クリスティ)、アーサー(コナン・ドイル)と二人までが英国ミステリーの作家からの引用で、あとのひとりがなぜかダシール、・・・。ダシール・ハメットはアメリカの作家で、他の二人が本格ミステリの書き手であるのに彼だけはハードボイルド作家なのだ。人選に違和感がある。この作り手の目配せはまったくいい出来とは思えないのだが、ハードボイルド作家からひとりくらい引用しておくべし、と思ったのかもしれない。
キューブリックの呪縛云々と書いたが、『マイノリティ・リポート』にはこの時期のスピルバーグのよさが全開で出ている。
企画段階からアイディアを出し合い、荒唐無稽で実現性が低いと思われた案も、スピルバーグのバリューと演出力で次々実現させていったのではないか。ところどころで不必要スレスレのギャグが挿入されるのもご愛敬だ。
ただそれがSF史に残る名作とならなかったのは、プロットを捻り過ぎたからではないか。
『ブレードランナー』の方が謳っているテーマは大変哲学的だが、われわれはその投げかけられた謎に対する答えを出せなくとも、(意識的にか無意識のうちにか)ただ受け入れるという方法で映画に向き合い、理解した気になっている。翻って、サスペンスや謎解きの要素として捻らた展開を持つが、何かわけがわからないけど打ちひしがれるほど大きく芯のあるもの、が『マイノリティ・リポート』には欠けている。スピルバーグにそんなものを求めても無駄なのは判っているが。ただ『ブレードランナー』においても、リドリー・スコットがそれを観客に提示できたのは偶然、・・・かもしれない。
だが、キューブリックなら計算のうえでできた筈だ。
そしてその「得体の知れない圧倒的な何か」を作り出す力が自分には欠けている、といちばん知っていたのはスピルバーグ自身の筈だ。繰り返しになるが、われわれはスピルバーグにそんな哲学的で衒学的なものを求めてはいない。
ただこの時期、スピルバーグが幻のように「自分にはない何か」を求めて、苦しみ足掻いていたのではないかと思うと複雑な気持ちになる。
血を継がない父の子でありたいと熱望し、自分にその資格があるか否か、スピルバーグはこの映画を作ることで試そうとしたのではないか。自分こそ偉大な監督の後継者であることを証明したかったのではないか。
『AI』を撮っても悲しみを癒しきることはできず、より胸に欠落を抱いてしまった。そう考えると、せつない。
そのせつなさに抗いながら、しかし映画が最後に用意していた幕切れは「父殺し」なのだから、…。クルーズと、スピルバーグの二人のキューブリックの嫡子の悲痛な心の叫びのようだ。