浄土教棄教と普遍性
本日のfacebook
他の方のスレッドで、浄土教の棄教について書いたら、棄教とは手に入れてから捨てるの意では?とコメントがついたので、返信したもの。
20代で「念仏もうさんとおもいたつこころ」で、暁烏敏賞をいただきました。これは卒論のリメイクです。学生のとき、親鸞を通して二種深信を信知したと思ったことはありました。が、同じパラドックス的構造で自我が壊れて無限の光にだけ満ちるのは世界中の真正の宗教の根元だと知るに至り、わざわざ浄土教を握っている理由などはないと知りました。
念仏もうさんとおもいたつこころhttp://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kankoubunkasportbu/bunkasinkou/akegarasu_sho/ronbun/1-10/S63-1honbun.html
松任市はスキャンの校正が全くできてないので注意。
2ページに行くとき、冒頭に戻る必要があるので注意。
冊子版はまともですが、たぶん品不足です。
そもそも最初に私を摂取した限りなきはたらきを、阿弥陀という名詞で呼ぶ必要はなかったのです。
精神遍歴の全体像
世界中の精神文化を論じてます
魂の螺旋ダンス 改訂増補版 読みやすいバージョン|長澤靖浩 #note https://note.com/abhisheka/m/m447cc391caf0
さらに、名乗りが入口て出口と言われたので、レスしました。
縁あった法の名前より、普遍性を私は選びます。それが私の名乗りです。
寺に生まれ世襲している人は、その世界を知っても知らずとも背負っているので同情します。
阿弥陀という名詞の背負う差別の歴史を言い訳する教団と対峙するうち、そもそも私がその名を棄てたらいいと気づき、視界が完全にクリアになりました。
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