魂の螺旋ダンス(46)浄土と臨死体験 DMTと臨死体験 この世に投げ返されて
・浄土と臨死体験~浄土教の深部より~
日本の仏教各派の中で最も信者の多いのは浄土真宗である。
浄土宗を含めると、もっと多くの仏教徒が「浄土教」の信者ということになる。
もっとも、その中には、熱心な念仏行者から、家の宗教がそうだが自覚もしていないという人まで含まれる。
だが、浄土という日本語は、それら浄土教の宗派の枠も越えて一般的である。
「死んだらお浄土へ行く」という考えは長い間、日本人の精神世界をゆったりと包み込んでいたとすらいえるだろう。
では、その浄土とはいったいどういうところなのか。
それについては、浄土真宗でも浄土宗でも共通して用いられる浄土三部経の一つ『阿弥陀経』=原題は『極楽の荘厳』に精しく説かれている。
しかし、昔の人はともかく、近代社会に生きる私たちにとっては、その極楽が西の彼方に、描かれたとおりの世界として実在するとは、到底信じられない。
私の臨死体験でも、『阿弥陀経』に描かれたような世界など観なかった。
では、私はいかなる意味においても「浄土」というものに逝かなかったのか?
ここで私は天親菩薩の『浄土論』に注目する。
天親菩薩は、経典に描かれた浄土のしつらえ(荘厳)というのは、つまるところたった一句に収まると論じている。
その一句とは「清浄(しょうじょう)」である。
浄土の特徴をもし一句だけで表すのならば「清浄」、それに尽きるというのである。
親鸞もまた主著『教行信証』の証巻において、この天親の言葉を受けて、究極的には「清浄」こそが浄土のしつらえ(荘厳)であることを改めて強調している。
それならば、私の臨死体験と一致する。
この世に蘇生してから、人は再び活動しはじめた脳によって様々なイメージで死後の世界を詩的にあるいはストーリーとして再構成する。
私はそれらのすべては傾聴すべき「真実」であると尊重する。
だが、具体的なイメージを越えて、その究極の姿を一句に収めるならば、それは「清浄」というしかないというのが、天親の『浄土論』。
曇鸞の『浄土論註』、その二人の名前から一字ずつをもらい受けて名告りをあげた「親」「鸞」の『教行信証』の言うところなのである。
また西方極楽浄土は阿弥陀仏の仏国土であるという。
これについても、昔の人々は阿弥陀仏の姿を光り耀く人格神のような姿で想像し、そのような方がそこに鎮座されているとイメージしていた場合が多いだろう。
そのような方と私は会わなかった。
しかし、この阿弥陀仏という言葉はもともと「量ることのできない限りなき智慧と生命」という意味のインドの言葉に由来している。
親鸞は『唯心鈔文意』において阿弥陀仏について「かたちもましまさず、いろもましまさず、阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし」と述べている。
それならば私の臨死体験と一致する。
「彼岸の光景」の章で述べたように「私」が経験したのは次のような「色も形もない光=覚醒」であった。
「それは自他不二(じたふに=非二元的な)の覚醒であって、「私」という思いはなかった。
ただただどのような障りもなく澄み渡った覚醒が全時空に広がっていた。」
実際、親鸞の語る阿弥陀仏は、私にはまったく人格神のようなイメージを結ばない。
『末燈抄』という消息(手紙)から引いてみよう。
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