魂の螺旋ダンス(42)宗教間対話
・ 文明の衝突?
一九九六年、S・P・ハンチントンは『文明の衝突』において、これからの国際関係における最大の問題は、異質な文明(とその源泉としての宗教)間の対立であると論じた。
彼の論には多くの批判も寄せられた。
しかし、その後の世界のシナリオは、残念ながらハンチントンの予測どおりに進んでいるようにも見える。
二〇〇一年九月十一日、アメリカは同時多発テロ事件に見舞われた。
そして、これに応じる形で、アメリカはアフガニスタンに武力介入する。
このような一連の動きを通じて、アメリカはますます軍事的経済的な一極支配を強め、悪の枢軸と名ざされたイラク・イラン・北朝鮮との溝は深まった。
二〇〇二年九月の日朝会談以降、日本人拉致を初めとする北朝鮮の問題がクローズアップされることとなった。
ここでもまた「パンドラの箱」は開かれた。これを契機にかつての日本の侵略行為や大国の介入を含む東アジアの業(カルマ)が一気に噴き出している。
もちろん現北朝鮮政権は徹底的に批判されなければならない。
だが、我々が「もっと深い場所」で直面しているのは、近現代史のしわ寄せのひとつの集約点としての東アジアのカルマではないか。
二〇〇三年三月二十日、アメリカ合州国によるイラク攻撃はついに火蓋を切って落とされた。
戦いは短期で「終結」が宣言されたが、その後も米軍や国連に対するイラク人の抵抗運動は続き、かの地の情勢は泥沼化している。
またイギリスの三枚舌外交に端を発するパレスチナ問題もますます激化・泥沼化している。
ハンチントンに対する批判の数々が指摘しているように、これらの現象を文明間、宗教間の対立としてだけ論じることには、大きな問題がある。
物事をもっと現実的・世俗的な視点から見るとき、経済的な搾取、抑圧、不平等―――アメリカの一極支配の構造こそが問題の基幹的な部分であることが見えてくる。
さらに、一見、文明圏の対立に見える諸問題の根源には、近代西欧における国民国家の誕生とその伝播、欧米列強による植民地支配と世界分割がある。
であるにもかかわらず、西欧が仮想敵として「異質な文明・宗教」を指弾することは、問題の基幹的な部分から目をそらす方法のひとつだと言える。
だが、それならばなぜ宗教は逆にその対立の積極的解消にもっと役立たないのかという問題は残る。
宗教の違いによってただちに戦争が起こるわけではなく、戦争の根本原因は経済的な利害関係だとしても、宗教がその戦争の推進に利用され、その戦争を支える働きをしてしまうことの責任はやはり厳しく問われなければならない。
もとより経済的・政治的・歴史的な詳細な情勢分析は本書の守備範囲とするところではない。
しかし、現代の国際状況の中において、宗教が対話よりもむしろ対立を助長するといった現象に対しては、本書においても何らかの解決の糸口を探し求めておかなければらならない。
・ 神々の対話
そこで問題となるのは、宗教の「メタ理論」あるいは「宗教間対話」の可能性である。
求められるものは、絶対化しがちな宗教思想をもう一度高次の超越性原理によって相対化することや、他の宗教性との対話に向かって開いていくことである。
では、ここで、二〇世紀の宗教思想史上における宗教間対話の試みを大局的に振り返っておこう。
一九六二年~六五年の「第二ヴァチカン公会議」は、カトリックの対話路線を大きく前進させたものと言われている。
宣言はこう言う。
「カトリック教会は、これらの諸宗教(ヒンドゥー教、仏教、イスラム教、ユダヤ教)のなかに見出される真実で尊いものを何も排斥しない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは、教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なっているが、全ての人を照らす真理の光線を示すこともまれではない。」
この公会議を思想的にリードしたカトリックの神学者K・ラーナーの立場は、「包括主義=無名のキリスト者論」として整理しうる。
つまり、他宗教において真理に目覚めている人々は、自らはそれと気づかずにキリストによって救われている「無名のキリスト者」だと言う考え方である。
そして実は、このような考え方はイスラームの中にもある。イスラームの教えに出会ってはいないが、真実なる生き方をしている人々は、実はそう名乗っていなくとも「ムスリム」だと言う見解がそれである。
このような立場=包括主義は、単純な排他主義に比べると遥かに開かれたものである。絶対性宗教が、多様な他者との出会いの中で、今一度自分自身を開きはじめた真摯な運動であるといえるだろう。
だが、J・ヒックは「ラーナーは他宗教にも救いの存在を認めるところまでいったのに、なぜそれをキリストと結びつけることから離れられないのか」とその限界点を指摘する。包括主義は確かに慈善的な笑みを浮べてはいる。
しかし、そこにはキリスト中心主義の微妙な優越感が隠されている。そこで対話と呼ばれるものは、真の平等を前提にしたものではない。
包括主義的なキリスト者の言う「対話」とは、実のところ、キリスト教の優越性を担保した上での慈善事業のようなものにすぎない。
包括主義者自身の善意は疑うべくもない。
だが、対話を求められた相手の視点に立てば、それが初めからキリスト中心主義を担保したものにすぎないことは、ただちに「匂い」で感知する。
包括主義者がどのように良心的な笑みを浮べていようとも、いやそのような笑みを浮べていればいるほど、「微妙な優越感」の「匂い」は、はっきりと感知されるのである。
さて、包括主義を批判したJ・ヒックは、このような根深いキリスト教中心主義を脱するために、「宗教多元主義」を唱えた。これは、特定の「神」に替わって「究極的実在」と呼ぶべきものを置くものである。
そこではもはやキリストの救いは語られない。
その代わりに、偉大な宗教的伝統に共通する「構造」が、注意深く取り出される。
ヒックは、すべての偉大な宗教的伝統は、自我中心から究極的実在中心への人間存在の変革の「場」あるいは「道」であるというのである。
ヒックの立場は、個々の超越性宗教の伝統から公約数的なエッセンスを抽出したメタ理論として成立している。
彼の言う「人間存在の変革」は、私が第三章において「超越性宗教」の核にあるものとして抽出した「パラドックスを通じての根源的解放」ともほぼ重なる。
このような思想は、様々な超越性宗教が出会い、互いをよく知り、その内奥に共通する構造を見てとることのできた「二十世紀という時代」にして初めて成立しえたものだ。
ヒックに限らず、多くの思想家がこのような「超越性宗教のメタ理論」を想定しえたのが、二十世紀という時代のひとつの達成であろう。
だが、このようなヒックの「宗教多元主義」に対しては、諸宗教を同質化・均一化してしまい、結局、どの具体的な救済論をも理解したことにならないという批判も現れた。
なるほど、超越性宗教の構造の単なる抽象的理解は、そのままで今ここに生きる私自身の存在変革とはなりうるわけではない。
具体的な教えや師、行法や救済論との出会いなしに、「宗教多元主義」を知的・抽象的に理解することが、切実な存在変革としての「自我の死=究極的実在における再生」につながることは、むしろ稀であるというべきではなかろうか。
実際のところ、「宗教多元主義」に賛同する人間も、元を正せばなんらかの「具体的な宗教的伝統」において、「究極的実在」に触れたはずである。
「宗教多元主義」の登場によって、生きた宗教的伝統の重要性はなくなるわけではない。
また、どの宗教的伝統にも依拠しない「究極的実在」を、どのような言語化もけっして許さないものだと考えると、それは飽くまでも不可知なままに留まる。
ここにヒックの認識論的ディレンマがある。
完全なるメタ理論は、言語表現を絶しており、それゆえに原理上、不可知なのである。
逆にたとえ「究極的実在」という言い方であれ、言語で表現するかぎり、それはなんらかの限界をもった具体的な宗教表現となり、完全なるメタ理論の位置からは脱落すると言うこともできる。
つまり、言語で表現されたかぎりにおいての「宗教多元主義」は公約数的な宗教表現ではあるが、最終的なメタ理論となるわけではないのだ。
(そもそも「究極的実在」という言語化自体に思想的な限定があり、「縁起生空」という仏教の立場から見ると、なんらかの実在を想定するという誤りを犯していることになる。)
とどのつまり、人は、今自分が置かれた時空の中からしか物を見ることも考えることもできない。
完全な客観性を得た理論を樹立したと考えることは、実は逆に主観への完全な埋没となる。
私の螺旋理論に則して言えば、超越性宗教の超越性運動はどのような形においてもけっして定式化することはできない。
螺旋は常に運動を続けなければならないのである。
では、いったいどうすればいいのか。
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