魂の螺旋ダンス(44) 臨死体験を語る
(注)『魂の螺旋ダンス』は人類の宗教の歴史を通観する厚い書物だが、そのうち「私自身の臨死体験とその考察」に関わる部分だけを読みたいという方は「臨死体験に関する原稿」というマガジンの中の「臨死体験の光景」だけを購入していただくことも可能である。
・臨死体験を語る
私は二〇〇四年に本書の製本版を第三書館より発行した。
その一四年後に当たる今回の改訂増補版にはその時に書き漏らしたことや、その後の考察を加筆してきた。
だが、その後の私の人生の中での最大の出来事、「臨死体験」について私はこの本に加筆するべきだろうか。
この点については大きな迷いがあった。
私の経験した「生死を超えた空の世界」は、永遠の今ここで続く魂の螺旋ダンスからの最終的な解脱であるのか。
あるいは、もっと巨視的な螺旋ダンスのプロセスに過ぎないのか。
それともまた、すべての螺旋ダンスの根底的なものとして不二(非二元的)なる覚醒そのものであるのか。
最後の説を採る場合、「空は即ち魂の螺旋ダンスであり、魂の螺旋ダンスは即ち空である」という存在論=空論が、私の死生観の究極となる。
逡巡の末、私はやはり臨死体験について本書で全く触れないのは、不誠実であり、何ものかの隠蔽ですらあると考えるに至った。
多くの瞑想体験にも触れてきたこの本において、それらの瞑想体験で垣間見た境地の究極的な姿(姿なき姿)に触れないのは、不自然であると思った。
初版の帯に私は自ら「すべてを超え、すべてを抱きしめたい」と記した。
臨死体験にわざと触れないことは、このうち後半の「すべてを抱きしめたい」を意図的に重んじる姿勢を意味する。
精神世界の現世忌避の危険性を避けるために、「すべてを超えた世界」について、その最深部まで語ることを回避することになってしまう。
だが、魂の螺旋ダンスの本質として、遠く超えるほど深く抱きしめることができ、深く抱きしめるほど遠く超えることができるのではあるまいか。
それでもその「すべてを超えた解脱の境涯への偏愛」という危険性についての、私の懸念はとてつもなく大きかった。
私は当初、その懸念の故に『魂の螺旋ダンス』を書き始めたと言ってもいいほどである。
その私が「すべてを超えた世界」について最終章に追記しなければいけないとは、いったいどういった因果であろうか。
そこで私は、臨死体験については書けるだけのことを書き、その上でもう一度バランスを取り戻すために、ひとつの対談を付録したいと考えた。
私が『臨死体験であの世がわかった著者が訳した 超簡単訳 歎異抄・般若心経』を出版した直後に、それを味読してくれた朋友、星川淳との対談である。
既に本書で述べたとおり、星川淳は仏教の解脱パラダイム(すべてを超える)を若き日の瞑想体験などから深く理解している。
そうでありながら、その後の経験から、先住民的なこの世の生命の循環を重視した世界観(すべてを抱きしめる)を大変重視するようになった。
そしてそうした視点からの発言を最もラディカルに開陳している著述家の一人である。
・心肺停止~事実としての死~
音楽フェスの会場で踊りくるっていた私をいきなり襲った瀕死性不整脈、心室細動。
それは心臓が制御不能な微細な震えのため、通常の心拍を打つのをやめてしまうという症状である。
心臓自体が完全に止まったわけではない。
だが、細かすぎる震えのため、正しい心拍は停止した。
その結果、体に血液は巡らなくなる。
特に脳はすぐに酸素欠乏に陥り、私はその場で昏倒したらしい。
「らしい」というのは、その少し前からの記憶が飛んでしまっており、それから五年たった今も蘇ってこないからである。
救急車が到着し、備え付けのAEDで私は電気ショックを与えられた。
一回目の電気ショックで心室細動は収まり、心臓は通常の心拍を打ち始めた。
心拍停止から、心拍再開までの推定時間は約一三分間。
多くの場合、そのまま死亡するはずの長い時間だという。
その間、私は心拍を打たず、呼吸も停止していた。
心肺停止。
蘇生医学の発達していない時代なら、そのまま死と同義である。
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