『倶舎論』をめぐって

第4回 ローゼンベルグの最後

何度か、大正時代の雑誌から、ローゼンベルグの記事を引用しました。実は、その号は、「ローゼンベルグ追悼号」でもありました。先の、池田澄達や姉崎正治の文章も、追悼文の1部なのです。その中でも、恩師荻原雲来のものや、荻原に宛てた未亡人の文は、是非、読んでもらいたいものです。先ずは、荻原の追悼文を見てみましょう。文章の雰囲気を壊すことが心配ですが、現代語に変えたものを紹介します。

往年(おうねん)日本文学特に日本仏教研究の目で、ロシアよりの留学生として来朝し、東京帝国大学にあって、熱心に研究を重ねていたローゼンベルグ氏は今度の大戦中に帰国し、ペテルスブルグ大学の教授であったが、昨年末〔住まいのあった〕パヴロヴスクを、追われたので、フィンランドに至り、そこからアメリカを経由して我国に来ようとする途中レヴルにて、猩紅熱にかかりわずか十二日臥せって、三十二歳を最後として、ついに帰らぬ人となったという。痛惜の念に堪えられない。氏は梵漢〔サンスクリット語・漢文〕の語に通じチベット文をも読み、仏教哲学に大なる興味を持ち、特に倶舎論の研究には、氏は最も多く力を使い、鋭い眼光は、本質を見抜き、本邦の専門家も舌を巻いた。 
 氏は留学中専門研鑽のかたわら、仏教研究名辞集を編成し、また漢字書の文字検索の方法を編みだし、五段配列漢字典を作ったことは、よく知られている。氏は帰国後、なお倶舎論の研究を進め、チェルバトスコイ教授とともに漢訳倶舎論のロシア語訳と英訳とを計画し、また自ら倶舎哲学体系論を著わす予定だったが、はたせなかった。氏の遺業(いぎょう)としては前掲(ぜんけい)二書の外に一昨年脱稿(だっこう)した仏教哲学の問題という一書がある。これ
はロシア語なので、未亡人が目下そのドイツ語訳に従事しているという。稀有の天才を道半ばにして、我が学界より奪い去られたのは、単に、遺族の不幸だけではない。(『宗教研究』第三年 第二十号、1920(大正9年),p.108,ルビ・〔 〕内は私の
 補足です)

恩師荻原も、ローゼンベルグに期待するところ大だった様子が偲ばれます。この文中に出てくる『仏教研究名辞集』と『五段配列漢字典』は、ローゼンベルグの業績の1つです。『倶舎論』研究をまとめた『仏教哲学の諸問題』は、純粋に仏教学の業績ですが、『仏教研究名辞集』等は、欧米人が漢文を読むための便利本みたいなものなのです。
 先に、ローゼンベルグ研究の第1人者、バーロー氏の論文を少しだけ引いています。彼は精神科医なのですが、全く畑違いのローゼンベルグに目を向けるようになりました。そのきっかけも、『仏教研究名辞集』と『五段配列漢字典』にありました。ある編集者の紹介文を覗いてみましょう。

 バーロー医学博士は、ハーバード大学の神経学上級研究協会にあり、医学部の1員である。また、マサチューセッツ総合病院とマサチューセッツ工科大学で職を得ている。彼のロシア語及び他言語の知識、そして、辞典に対する関心は、スタンダードな『中・露辞典』に英語の記載を加えるに至った。3カ国語用の本は、ハワイ大学出版により、1995年に『中・露・英』辞典として刊行された。それは、ローゼンベルグがまとめた図式システムなのである…。バーロー博士は、辞典の序文と補遺で、どうしてそれを作るようになったのかについて、そして、ローゼンベルグの漢字整理法システムについても、多くの情報を提供している。辞書を作る過程で、バーロー博士は、ローゼンベルグその人についての情報を探るようになった。(バーロー「若き輝かしきロシアの東洋学者ローゼンベルグの不可思議なケース」J.S.Barlow,The Mystrerious Case of the Brilliant Young Russan Orientalist,International Assosiation of Orientalist Librarians,Bulletin,41/42,1995-1996,p.24、私訳、ルビ私)

不思議な因縁で、バーロー氏は、ローゼンベルグに惹かれていったわけです。バーロー氏も語学が得意だったようです。彼は、60年振りにローゼンベルグの漢字システムを復活させました。バーロー氏は、ロシア語・中国語には堪能でも、日本語は出来なかったのかもしれません、論文では、残念ながら荻原や池田の文章は、使っていませんから。でも彼は、ポジティヴ思考のアメリカ人です。ものすごい行動力で、ローゼンベルグの未亡人、エルフリダ・ローゼンベルグについて調べ上げます。

 私の次なる探索は(1995年の春遅く)ヘルシンキ市保管文書にエルフリダ・ローゼンベルグの情報を得るためのもので、鍵となるような補足情報がもたらされた。…4月5日結婚、1922年9月5日フィンランドの小さな町からヘルシンキへ引越し、1953年に亡くなった。エストニアからフィンランドにいつ着いたを示すものは何もない。(バーロー「輝かしく若いロシア仏教学者ローゼンベルグ」、
 John S.Barlow,Otto O.Rosenberg(1888-1919):Brilliant Young Russian
 Buddhologist,Karenina Kollmar-Paulenz and John S.Barlow ed.,Otto
 OttonovichRosenberg and his Contribution to Buddhology in
 Russia,1998,Wien?、私訳、ルビ私)

未亡人は、夫の死後、30年以上経って、亡くなりました。ドイツ語訳を成し遂げ、夫の業績を永遠のものとしたエルフリダ・ローゼンベルグ。次回は、彼女の痛切極まる文章を、大正時代の例の雑誌から、紹介してみましょう。

いいなと思ったら応援しよう!