帰国後の曽祖父一家:在米知人からの手紙(大正14年)
曽祖父保次郎は帰国後、在米の知人や親族、日本国内の知人などと手紙のやり取りをしていました。
当時の人が書いた日本語は旧かな漢字遣いの候文なので、英語の書類を読むより苦労しました。タイプライターで書かれた英文書類はGoogleドキュメントでテキストデータ化できましたが、手書きの昔の日本語はOCRアプリを使っても読み取れませんでした。保次郎の甥が書いた手紙はかろうじて読めますが、他のものは難解すぎます。
そこで、古文書やくずし字が読めるという、元同僚Nさんのお父さんに解読を手伝っていただきました。Nさんを介してやり取りするより実際に対面で手紙を見ながら話したほうが早いということになり、Nさんの夏休み帰省に合わせて実家へ伺い、その場でお父さんに解読してもらいながらiPhoneで入力してテキストデータ化しました。
余談ですが本当にお盆ど真ん中という日だったので、N家には立派なお盆飾りがあり、Nさんのご先祖様にもお参りさせていただきました。久しぶりに父方の実家(保次郎が建てた家)に行ったような、不思議な感じがしました。
☆☆☆
解読した手紙のうち、ヒラノさんという方からは大正14年(1925年)の6月と10月の2回、手紙が来ていました。
6月17日付の手紙は、こんな出だしで始まります。
謹啓 仕り候 貴下御帰朝後の御動静は如何に候や。定めし御家族一同御無事御清栄の御事と賀詞奉候
テキスト化すると何となく読めますが、元の手書き候文はまあ〜、読めないこと!
この挨拶文のあと本題に入ります。まず5月に保次郎がヒラノさん宛てに手紙を送っていたようで、それを拝読し承ったという返事が続きます。そして、サンノゼの種物産会社の件についてD社が何度か交渉したが何も得るところがなかったこと、D社はストックトンの代言人(弁護士)にこの件を任せたこと、弁護士の手に渡ったからには遠からず解決するだろうこと、を取り急ぎ知らせる内容となっています。
その後10月20日付の手紙では、D社を経由してヒラノさんの代わりに(保次郎が)受け取った125ドルについて種物産会社に照会したが何も返事をもらえないので、友人Pに頼んで貴兄(保次郎)に面談する次第である。D社からの手紙によれば、D社は「当該事件の交渉費として弁護士に支払った手数料を引いた125ドルを貴殿(ヒラノさんのこと)にお渡しします」とのこと。自分はこの件について貴兄(保次郎)がどう思っていようが関係なく交渉費として30ドルを支払うので、その30ドルを引いた残額を友人Pに渡してほしい。という内容が綴られていました。
……元々の事件が何だったのか分かりませんが、ヒラノさんが抱えていたトラブルに関して保次郎がD社と連絡を取って仲介に入ったように読めます。保次郎とヒラノさんの関係もよく分かりませんが、「貴兄」と呼びかけていることから、少なくとも彼は保次郎より年下なのでしょう。
この手紙を解読する前は、保次郎がアメリカに残してきた何かの解決を知人に依頼したのかと思っていたのですが、実際は逆でした。それが分かった時、あ、これってうちの父(保次郎の孫)そっくりじゃん!と思いました。生前の父も身内から頼られ、奔走して解決する、ということをよくやっていましたので。
父と曽祖父は外見は全く似ていませんが、やっぱり血の繋がりがあるんだと思って感心してしまいました。
なお、ヒラノさんとの手紙はこの2通しか残っていないので、この後も2人が連絡を取り合っていたのかどうかは分かりません。
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