abetomo

Web業界の片隅に。

abetomo

Web業界の片隅に。

マガジン

  • 保次郎一家の移民生活

    曽祖父・保次郎(やすじろう)一家の米国移民時代を辿る旅。明治〜大正時代のお話。

  • バアニャンお達者通信

    ノラ猫だったナナンの15年後。「バアニャン」になったナナンとの暮らしを紹介します。

最近の記事

Twitterの避難先として、noteはどうなのかねえ。個人的にはアリなんだけど、長年フォローしてた人たちが居ない場所では意味がないしなー。あとnoteのつぶやき機能も140文字なのね!今気がついた。

    • 早逝した次女と自作のパジャマ(昭和8年)

      曽祖父保次郎一家が日本に帰った後、次女ヒメコは新潟の女学校時代(1930年代)に病死しました。 自宅がかなり田舎だったので女学校の寮に入っていたのですが、そこで同室だった方から結核に感染しました。その方はその後回復したそうですが、ヒメコは亡くなりました。 この写真は女学校時代に撮ったもので、台紙にはこう書かれています。 昭和八年五月下旬 十七才 このパジャマは自分で作ったもの。妹は病気療養の為家に帰って居た。 「妹」とあるので、これは曽祖父ではなく祖母が書いたのでしょ

      • 祖母とアメリカの友達との文通(大正14年)

        曽祖父保次郎だけでなく、祖母も帰国後にアメリカの友達と手紙をやり取りしていたようです。1通だけ、大正14年(1925年)6月8日の日付で、友達3人から連名で送られてきた手紙が残っていました。 この手紙は英文タイプライターで書かれているので、下記のエントリーで紹介した方法と同じようにテキストデータ化して読むことができました。 Having received your great and most welcome letter thus without delay promp

        • 帰国後の曽祖父一家:米国の甥からの手紙(大正14年)

          曽祖父保次郎一家の帰国後、大正14年(1925年)11月に、アメリカにいる甥(保次郎の兄の次男)が保次郎に出した手紙も残っていました。 今年の須市地方の農業界の景況は非常に宜しくオニオンは初め三弗五十銭より次第に売買致し居り候 *共イモは初め三弗内外の相場で有りしかども次第に***呉 今は三弗五十銭より四弗の相場を常と致し居り候 今年のイモ作りは**大金を儲ける見込に御座候 叔父さんも日本が見込無いなら一日も早く再渡米致してまた金儲けに従事致しては如何に候や御伺申上げ候 (

        • Twitterの避難先として、noteはどうなのかねえ。個人的にはアリなんだけど、長年フォローしてた人たちが居ない場所では意味がないしなー。あとnoteのつぶやき機能も140文字なのね!今気がついた。

        • 早逝した次女と自作のパジャマ(昭和8年)

        • 祖母とアメリカの友達との文通(大正14年)

        • 帰国後の曽祖父一家:米国の甥からの手紙(大正14年)

        マガジン

        • 保次郎一家の移民生活
          18本
        • バアニャンお達者通信
          11本

        記事

          帰国後の曽祖父一家:在米知人からの手紙(大正14年)

          曽祖父保次郎は帰国後、在米の知人や親族、日本国内の知人などと手紙のやり取りをしていました。 当時の人が書いた日本語は旧かな漢字遣いの候文なので、英語の書類を読むより苦労しました。タイプライターで書かれた英文書類はGoogleドキュメントでテキストデータ化できましたが、手書きの昔の日本語はOCRアプリを使っても読み取れませんでした。保次郎の甥が書いた手紙はかろうじて読めますが、他のものは難解すぎます。 そこで、古文書やくずし字が読めるという、元同僚Nさんのお父さんに解読を手

          帰国後の曽祖父一家:在米知人からの手紙(大正14年)

          帰国後の曽祖父一家:日本でも写真を撮る

          日本に帰った曽祖父一家は、故郷の新潟県と福島県の県境にある山奥の村に滞在しました。 下の写真は、帰国した大正14年(1925年)の7月に新潟県三条市の水野写真館で撮ったものです。左が7歳の次女ヒメコで、右が11歳の祖母です。写真の台紙に「日本上陸第壱回ノ寫眞」とメモが書いてあります。 今までと違って子供たちは和服を着ています。これ以降の写真は、和服で写っているものばかりになります。下の写真は大正15年(1926年)4月撮影です。 それからなんと、保次郎・ヨキ夫妻には19

          帰国後の曽祖父一家:日本でも写真を撮る

          曽祖父保次郎、42歳で日本に帰る(大正14年)

          曽祖父保次郎のアメリカ生活はそれなりに豊かだったように思えますが、42歳の年に妻子を連れて日本へ帰りました。理由は、家が一度家事で焼けたことや曽祖母ヨキが病気を患ったことから、ヨキが「ホームシック」になったためだと生前の祖母から聞きました。 たった1人で船に乗ってアメリカへ嫁ぐほどタフだった曽祖母なので、よほどの心労があったのでしょう。曽祖父も帰国時にはそこそこお金を貯めていたようなので、日本に帰っても当面は暮らしていけると考えたのかもしれません。 そんなわけで、1925

          曽祖父保次郎、42歳で日本に帰る(大正14年)

          祖母のような日系二世が受けた教育(1920年代)

          祖母のようにアメリカで生まれ育った日本人移民の子供(日系アメリカ人)は、どんな教育を受けたのでしょうか。 以前読んだ本には、日本に住む親族の元に子供だけ送り、日本の学校で教育を受けさせたという話が載っていました。そしてアメリカへ帰国した日系二世のことを「帰米」というそうです。 祖母の場合、一家で帰国するまで日本へ行ったことはないため、この「帰米」には当てはまりません。現地の公立小学校らしき学校へ通っていたことからも、日本人学校などない時代だっただろうし、日本語は家庭で両親

          祖母のような日系二世が受けた教育(1920年代)

          祖母が通ったアメリカの小学校(1920年〜1921年)

          曽祖父保次郎一家がカリフォルニア州に住んでいた頃、娘である祖母とその妹ヒメコ(大叔母)は現地の小学校に通っていました。当時の祖母の成績表と、「Certificate of Promotion」というカードが今も残っています。「Certificate of Promotion」は進級証明書とでもいうのでしょうか。 進級証明書は、1920年6月11日(June 11 1920)の日付で「has been promoted to Second Grade」と書かれていますので、2

          祖母が通ったアメリカの小学校(1920年〜1921年)

          アメリカ(外国)で生きるということ

          先日、佐久間裕美子さんがゲストの「note creator meetup」に行ってきた。 実は佐久間さんのことは全く存じ上げなかったのだが、テーマが面白そうだったのと、noteを運営するPOCの加藤さんが登壇されることに興味を惹かれて参加した。そしたら当日会場で「佐久間さんのファンの方?」という問いかけに何人も挙手されていたので、あっ私が来ちゃって良かったのかな、とちょっと焦った。 けれどトークが始まったら、日本の大学生活に馴染めず留学したのをきっかけにアメリカでの仕事

          アメリカ(外国)で生きるということ

          家族や友人たちと(明治38年〜大正13年)

          曽祖父の保次郎は写真が好きで、家族写真以外にも、友人と思われる方や親族と思われる子どもたちと撮った写真を何枚も残していました。写真館ではなく屋外で撮った写真もあります。 屋外写真はどうやって撮ったのでしょうか。そして一緒に写っている(家族以外の)人たちは誰なのか? 写真の裏に撮影年月はメモしてありますが、それ以外のことは残念ながら何も分かりません。 友人との屋外撮影。写真の裏には「明治参拾八年」の手書きメモ。左側の背景がちょっと違うトーンというか、建物の位置がズレています

          家族や友人たちと(明治38年〜大正13年)

          曽祖父が農業を営んでいた場所(大正9年)

          曽祖父・保次郎は米国カリフォルニア州のストックトン(Stockton)やオーウッド(Orwood)に住み農業を営んでいましたが、それは具体的にどこで、何を栽培していたのか。以前紹介した英文契約書から読み解いてみます。 まず1920年(大正9年)10月12日に、保次郎(the party of the first part)とHeritaさん、Sakiさん、Yoshidaさん、Kamibayashiさん(the parties of the second part)との間で締

          曽祖父が農業を営んでいた場所(大正9年)

          力強い

          力強い

          いだてんと同時期に海を渡った曽祖母、そしてBuddhist Church(明治45年)

          曽祖母のヨキが、カリフォルニアの保次郎に嫁ぐため、1人で船に乗って横浜港を出発したのは1912年(明治45年)6月22日でした。 明治45年といえば、いま放送中の大河ドラマ「いだてん」に出てくる金栗四三(中村勘九郎)や三島弥彦(生田斗真)がストックホルムへ出発したのも同年5月16日でした。3月3日放送の第9話「さらばシベリア鉄道」を見ていて、ヨキとほぼ同じ時期だということに気がつきました。金栗四三20歳、三島弥彦26歳くらい、ヨキは23歳なので、年齢も近いです。 劇中、ス

          いだてんと同時期に海を渡った曽祖母、そしてBuddhist Church(明治45年)

          曽祖父、カリフォルニアで農業を営む

          明治時代にアメリカへ渡った日本人移民の多くは、農業労働者として働いていました。彼らは渡米当初は小作人として低賃金で労働していましたが、やがて土地を借りて農業を営む人が出てくるようになります。曽祖父・保次郎もそのパターンだったようで、祖母(保次郎の長女)の子供時代にはカリフォルニア州のストックトン(Stockton)かオーウッド(Orwood)の辺りに農場を持ち、人も雇っていました。 これは農場の写真です。表には「September 7th,1910」、裏には「吾等の状態 其

          曽祖父、カリフォルニアで農業を営む

          100年前の英文契約書をテキストデータにしてみた

          このマガジンではアメリカに移民していた曽祖父・保次郎のことを紹介していますが、ハワイへ渡航→米国本土上陸→結婚→家族が増える、という経緯を写真と共に辿るパターンに飽きてきたので、今回はちょっと趣向を変えます。 父の実家の蔵にあったボストンバッグには、写真と一緒に英文タイプされた書類が複数入っていました。 どうやら1920年代に作成した農業の雇用契約書や農場の賃貸契約書らしいのですが、これが契約書だということを理解したのはつい最近、昨年末くらいのことでした。 発見当時の1

          100年前の英文契約書をテキストデータにしてみた