帰国後の曽祖父一家:米国の甥からの手紙(大正14年)
曽祖父保次郎一家の帰国後、大正14年(1925年)11月に、アメリカにいる甥(保次郎の兄の次男)が保次郎に出した手紙も残っていました。
今年の須市地方の農業界の景況は非常に宜しくオニオンは初め三弗五十銭より次第に売買致し居り候
*共イモは初め三弗内外の相場で有りしかども次第に***呉
今は三弗五十銭より四弗の相場を常と致し居り候
今年のイモ作りは**大金を儲ける見込に御座候
叔父さんも日本が見込無いなら一日も早く再渡米致してまた金儲けに従事致しては如何に候や御伺申上げ候
(**部分は判読できない文字)
この年のStockton(ストックトン=須市)の農業界は景気が良く、イモは3ドル50セントから4ドルの相場が常で、大金を儲けられそうだと言っています。
「日本に見込みがないなら再渡米してはいかが」と甥が言っているところから察するに、帰国したものの生活していけるような仕事の目処がつかない状況だったのではないか、またそのことをアメリカの兄一家に知らせていたのではないかと思います。
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ここから先は、伯母(保次郎の孫)に聞いた話とこの手紙の内容を踏まえた推測になります。
保次郎一家が日本で身を寄せたのは新潟の実家ではなく、ひと山越えた福島側にある保次郎の母方の実家でした。どちらも農家ですが、自分の実家は長兄がいるため三男の保次郎の居場所は元々ありません。そこへ母方の実家から保次郎を跡取りに、という話が出たそうです。
ところが日本の山奥の農村での生活は、予想以上に貧しいものでした。同じ農業といっても、アメリカで大きな農場を使ってアメリカ式に大量の作物を栽培して売る「経営」をしていた保次郎にとっては「見込みがない」と感じるような状況だったのだと思います。
アメリカを出る際に提出した書類に「12ヶ月以内にアメリカへ戻る」と書いてあったのは、母方の実家に行ってみてダメそうだったら再渡米できるよう保険をかけていたのかもしれません(その書類についての話は下記のnoteを参照)。
しかしここで思いがけず、帰国の翌年に末っ子の大叔母が生まれることになります。乳児の大叔母を育てている間に長女も次女もそれぞれ日本での生活ができていきますし、1929年には世界恐慌が始まり、ストックトンの農業界も大不況になったかもしれません。そうこうするうちに再渡米するタイミングを逃し、結局そのまま日本に永住することになったのではないか。
曽祖父は当時どんな思いで生きていたんだろうか? と思ってしまいます。でも十数年後に第二次世界大戦で日米が開戦すると、在米の日系人は生活を全て取り上げられ強制収容所行きになりました。次兄の娘一家も強制収容所に行ったそうです。保次郎一家は戦争中も(田舎すぎて)空襲の危険もなく暮らせたので、人生は何が幸いするか分からないなと思いました。
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