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ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜㉜ 『わたしが九十才になっても』

 それは、なんてことはない戯れの会話から始まった。

 金曜の夜、彼の家で二人はワインを飲み、それぞれどんな一週間を過ごしたのか語り合った。彼女は、数日前に恋人の浮気現場を目の当たりにしてしまった友人のことを話した。その話題は、彼女の心を空想へと導き、彼にこんな質問をするきっかけとなった。

「もし、わたしが浮気している所を見ちゃったら、どうする?」

 こうした仮定の質問を、彼女は好んでよくする。

「俺はその男を許さないね。警察に余計な仕事を一つ与えることになるかもな」と言って彼はニヤリと笑う。解答に満足した彼女は次々と「もし、わたしが……」、「もし、あなたが……」と質問を投げかけた。その度に彼は、彼女の恋人として、極めて模範的な、つまり彼女が求める答えを慎重に探りながら、一つ一つ答えていった。

 彼女は彼と過ごす時間が好きだった。この時間がいつまでも続いてほしい、と思っていた。だからだろう、「もしもゲーム」の締めくくりとして彼女がこんな質問をしたのは。

「ねえ、わたしが年を取って、おばあちゃんになっても、そうだな、九十才になっても、いまと変わらず愛していてくれる?」

「もちろんさ。けど、君が九十ってことは、俺は九十八だ。空の上から見守ってあげるくらいしか出来ないだろうね」

 空の上にいる何者かが、恋人同士のこんなささやかな会話に耳を傾けていたのかもしれない。そして彼の答えを疑ったのかもしれない。あるいは単なるイタズラだったのかもしれない。とにかく、どういうわけか一晩で六十六年が経過し、翌朝彼女は本当に九十才になっていた。目覚めた彼は、隣に老婆が眠っているのに気づき、声をあげて驚いた。その声に彼女も目覚め、ぼんやりと彼を眺めてこう言った。

「あら、どちらさんだろうね」

 それを聞きたいのはこっちだ、と思いながら、彼は改めて彼女を見る。

 老婆は昨夜彼が彼女に貸したTシャツと短パンを身につけていた。顔は皺だらけになったとは言え、昨日までの彼女の面差しを残していた。もしかしてこの老婆は、自分の恋人なのだろうか、と彼は思い至った。

「……優子?」と彼は彼女の名を出し尋ねる。

「ええ」と彼女は答えた。

「あのう、どちらさんか分からないけど、お手洗いに連れてってもらえないかね」

 状況がうまくのみこめないまま彼は、彼女が身体を起こすのを手伝って、トイレまで手を引いて行った。しかし、間に合わず、その途中で、彼女は粗相をしてしまった。

「ああ、まったく情けないねえ。年だけは取りたくないよ。自分九十だなんてねえ」彼女は恥じらいながら言った。

 九十才。わたしが九十才になっても、たしかそんな話を昨日彼女としたことを彼は思い出した。もしかしてそれが理由なのか? 俺はあの質問になんと答えた? もちろん君を愛すると答えたはずだ。それが証明されれば、彼女は元に戻るのだろうか? 彼は床を拭きながらそんなことを考えた。彼女は居間でぼーっとテレビを見ていた。

 自分の愛を証明するために彼は、老婆の隣へ行き、その頬に口づけをした。彼女は虚ろな目で彼を見て「飯はまだかい?」とだけ言った。

 彼はコンビーフサンドを作りコーヒーを淹れた。それは彼女のお気に入りの朝食メニューであった。

「おいしいですか?」と彼は聞く。

 彼女は二三度頷いた。

「和食のほうがよかったですか?」と彼は聞く。彼女は同じように頷く。

「食べ終わったらお散歩でもしましょうか」と彼は言う。彼女はまた頷いた。何を聞いても答えは同じで、彼は会話を諦め、二人とも黙って食べた。咀嚼音だけが室内に響いた。

 食後二人は、散歩に出掛けた。ゆっくりと、近所を一周してすぐに帰ってきた。

 彼女は一日の大半を窓辺に座り、家の前の往来をじっと眺めて過ごした。彼は彼女が若い頃好きだったOfficial髭男dismの音楽などをかけたが、特段反応を示すことはなかった。

 昼飯、晩飯を食べさせ、風呂にも入れてやり、夜九時に彼は彼女をベッドに連れて行った。枕元にあるランプの明かりに照らされた彼をまじまじと眺め、まるで彼を初めて見たかのように彼女は言った。

「まあ、あなたってハンサムねえ」

 思いもよらぬ言葉に、彼は照れてしまった。

「あたしがうんと若い頃、あなたにそっくりのハンサムな恋人がいたのよ」

 彼女は視線を彼から天井に動かし、天井を通りこして、遠い過去を見つめた。その表情に、若かりし日の面影が宿り、老婆を美しい娘のように見せた。

「その彼とは、どうなったんです?」と彼は聞いた。彼女は再び視線を彼に戻す。

「突然いなくなっちゃったの、ある朝突然」

「それは……、さびしかったでしょう」

「ええ、とっても。白いシャツにワインをこぼしたように、いつまでもあたしの心に染みついているのよ」彼女の瞳は潤んでいた。彼は彼女の手を取った。

「優子さん、僕はね、あなたを一人ぼっちになんかさせませんよ」

 そう言って彼は目を閉じて彼女の唇に口づけをした。

 その瞬間、彼女の唇は弾力を増し、顔中の皮膚は一斉に蜂起し、重力へ反旗を翻した。驚いて目を開けた彼の前にいたのは、若い美しい女だった。

「あれ、わたし寝てたの?」と彼女は言った。

 彼は口を開けたまま何も言えなかった。

「あー、なんか夢を見てた。あなたの夢だった。思い出せないや。ねえ、もしあなたがわたしの夢を見て……」

 彼は慌てて「おっと!」と彼女を制した。

「〝もしも〟、の話題は今はやめとこう。ね?」

 彼女はぽかんと彼を見つめ「分かった」と言った。彼は彼女を抱きしめ誓った。

「あのおばあさんに再会するまで、俺は彼女と一緒に過ごそう」

 それはちょっと変わった週末のできごとであった。



・曲 Doris Day / Dream a little dream of me


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内で不定期連載中の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが朗読してくれたおはなしです。
上記は10月6日放送回の朗読原稿です。

Dream Night放送90回記念ということで、90という数字にちなんだお話を書きました。当初は悲しい結末が頭をよぎったのですが、記念回なのでちゃんとハッピーエンドにしました。

朗読動画も公開中です。


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