ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜㉙ 『いい夢を、おやすみ』
夜空というものは、それを見る者の心のありようを鏡のように正確に反射する。
嬉しいことがあった帰り道、見上げる夜空では、月も星も、一緒に喜んでくれているように優しく輝いている。反対に嫌なことや悲しいことがあった帰り道、月も星も、どこかよそよそしく冷たく光っている。
もしも二年前の今頃、空を見上げていたなら、わたしはどんな夜空を、そこに見出していたのだろう。その頃わたしは、空を見上げる余裕さえなかった。
今日、彼の三回忌だった。
家族だけでこじんまりとした法要を終え、晩に彼のご両親、兄夫婦と、わたしは食事をした。その席でお義父さんがわたしに言った。
「あいつのことは気にせんでいいから、早くいい人見つけてください」
お義母さんも、お義兄さん夫妻も、みな頷いて同意していた。
「ええ、そうですね」とわたしは弱々しく答えた。
わたしはまだまだ、そんな気になれなかった。世界中の男性と知り合ったって、彼ほど気の合う人とまた出会えるとは思えなかったし、あるいはそれが、わたしの単なる思い込みだって知ってしまうのが恐かった。そして何より、彼との思い出が、新しく美しい思い出によって霞んで行ってしまうと思うと、悲しくてたまらなかった。この二年間、わたしはそうした思いに囚われて生きてきた。一歩を踏み出す勇気がなかった。
食事を終え、彼の家族と別れ、一人での帰り道、わたしは不意に夜空を見上げた。夜空は分厚い雲に覆われ、月も星も、見えなかった。
「もしあなたがいまのわたしを見たら、なんて言うんだろう?」
愛する人を失って辛いのは、その人が想像の世界の住人になってしまうということだ。これについてどう思うだろう? この映画、絶対好きって言うだろうな。この料理、きっと美味しいって気に入ってくれるだろうな。永遠に答え合わせの出来ない答案を、わたしはいくつも抱えている。
「たまには夢の中にでも会いに来てよね」胸の裡でそう呟いた。
彼が亡くなった直後、わたしはよく彼の夢を見た。わたしは人混みの中にいて、あたりを見回すと、遠くにいる彼が笑ってわたしに手を振っていた。どの夢でも彼はなにも喋らず、ただ笑っていた。わたしはなにか言って欲しかった。
雲をすり抜けて、わたしの願いは、星に届いた。
その夜、彼はやって来た。
夜中にふと目を覚ますと、彼は枕元のベッドサイドに腰掛けて、困ったような、すまなそうな笑顔でわたしを見下ろしていた。それは喧嘩のあとで謝る時の彼の癖のある笑い顔だった。
わたしは金縛りにあっていて身体を動かすことができず、声を発することもできなかった。溢れてくる涙を拭えず、彼の姿がどんどん滲んでいった。なんとか声を出そうとしてみたけれど、やはり駄目だった。手を伸ばせば届く距離にいる彼に、触れることができない。それがもどかしくて、悔しかった。
わたしは心の中で彼に哀願する。
「ねえ、お願い、なにか喋って、わたしの名前を呼んで、あなたの声をまた聞かせて、わたしに触って、お願い、わたし、あなたのこと、ちょっとずつちょっとずつ忘れていってる、あなたの手の暖かさを、あなたの匂いを、あなたの声を、わたしはちょっとずつ忘れていってる。わたしだけがどんどん年を取って、いつかあなたのことを、全部忘れちゃうの? そんなの嫌だよ」
彼は手を伸ばし、わたしの頬に触れ涙を拭ってくれた。そこには懐かしい温もりがあった。わたしはこの温もりに、いつも励まされていた。それから彼は、「ごめんな」と言った。
そして、彼はわたしの名を呼んだ。また涙が溢れてきた。
彼はもう一度わたしの名を呼び、続けてこう言った。
「いい夢を、おやすみ」
次の瞬間、彼はいなくなり、唐突に朝がやって来て、わたしは目を覚ました。
頬には涙の跡がはっきりと残っていた。
仕事に行く支度をしながら、わたしはさっきまで見ていた光景を思い返す。夢を見ていたのか、現実に起こったことなのか。
「いい夢を、おやすみ」
彼にそう言われ、わたしは目を覚ました。どういうことなんだろう。
昨夜のことが現実で、わたしはいま夢を見ているということ?
そうなのかもしれない。目覚めることではじまる夢がある。
わたしたちはその夢の中で泣いたり笑ったり、愛しあったり、傷つけあったり、夢を見たりしている。
人生とは、たった一度きりしか見ることのできない夢。
だったらそれを笑顔で溢れさせ、思いっきりいいものにしないとね。
ありがとう。ここにいないあなたに、わたしはまた、助けられた。
支度を済ませ、上着をはおり、靴を履き、玄関で一度深呼吸してから、わたしはドアを開け、真っ青な快晴の空のもとへ、一歩踏み出す。
・曲 坂本スミ子「夢であいましょう」
SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが僕の書いたショートストーリーを朗読してくれています。
上記は7月28日放送回の朗読原稿です。
今年の一月から続いておりました「木曜日の恋人」コーナーですが、今週をもちまして毎週お届けするのは最後になります。
今後は不定期での連載となります。
短いお話ですが毎週一本書いて朗読してもらう、というのはとても楽しかったです。また一方で、そうしてショートストーリーを書いていく内に、この題材をもう少し突き詰めてみたい、膨らませてみたい、などそういった気持ちも湧いてきて、今年の残りは、それが小説になるのか映画になるのかは分かりませんが、ガツんとした長編に挑みたいなと思っております。
朗読動画も公開中です。
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