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見慣れたものを見知らぬものに置き換える俳句を詠みたくなる『おいしそうな草』
詩人の蜂飼耳のエッセイ『おいしそうな草』を読んだ。俳句とは関係ない文脈でオススメされたのだけど、句作に役立ちそうなポイントがあった。
それは「詩や芸術がどうやって生まれるのか」を論じている箇所だ。
僕は句作するとき、「感動」を思い出してとっかかりにすることが多い。が、どういう「感動」をベースにすると、詩になりそうかのヒントがここにある気がする。
4点抜粋します。黒太字は僕が勝手につけました。
西脇順三郎の『超現実主義詩論』にこんな文がある。
「人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもつて意識さす一つの方法である」。
「習慣は現実に対する意識力をにぶらす。伝統のために意識力が冬眠状態に入る。故に現実がつまらなくなるのである。習慣を破ることは現実を面白くすることになる」
見ることで慣れていき、慣れたもので構成される日常を一日一日、日めくりカレンダーのようにめくっていくことが、生きることなのかもしれない。だが、それによって人間の感覚を眠らされてしまう。慣れることがもたらす穏やかさは、感覚の死でもある。
すべての芸術は、見慣れたものを見知らぬものに置き換える手として動く。リンゴがリンゴであることをやめない限り、それを見つめつづけるしかない。
中原中也の『芸術論覚え書』の冒頭は、次の一行だ。
「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その 手が深く感じられてゐればよい。
詩がどこから来るのかは、いつでも新鮮な謎なのだ。石原吉郎は、第一行は〈訪れるもの〉だと述べた後、こう綴る。
「第一行は〈訪れるもの〉だといったが、これは正確ではない。私は多くの第一行と路上ですれちがっているはずである。私にかかわりのない第一行は、そのまますれちがうだけだが、もし重大なかかわりがある一行であれば、それはすれちがったのちふたたび引きかえしてくる。この〈引きかえしてくる〉という感じは、説明しにくいが、私にとって大へん大事な感覚である。それはいちど通りすぎたのち、やっと私の顔を思い出した、というように引きかえしてくる」
3行でまとめると、
習慣に従って生活していると、眠らされてしまう感性がある
芸術は、眠った感性を呼び覚まし、知っているものを知らないものに戻す
言葉になる以前に感じた何かが詩の始まりになる
であろうか。
俳句にも色んな俳句があるので、いつも芸術性や詩性を追いかけていたら疲れちゃうかもしれない。けど、自分にとって抜き差しならず大事な句を詠むときには、こうしたことが参考になるかもしれない。
以上です、ありがとうございました!