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俳句の真髄がわかった気になる『渾沌の恋人』
心を掴まれる本に出会うと、その作家の本をまとめて読みたくなる。俳句関連だと、『この俳句がすごい!』を読んであと、小林恭二の本を一気読みした。
それ以来なかなか出会わなかったが、先日読んだ恩田侑布子の『星を見る人』、これには大分ヤラれた。
というわけで僕の中で、恩田侑布子読書月間が始まった。まずは
からである。
読んだ結果。
すごい本だった。
これまで読んできた俳論の中で、俳句の真髄に最も迫った本だと思う。
歴史的な詩論を踏まえながらも、キャッチーに俳句を論じている。
テーマがテーマだけに難解な箇所もあるが、具体例が豊富でわかりやすい。
日本の芸術をベースに論が展開される部分もあるが、そこは昔読んだ、橋本治の『ひらがな日本美術史』が助けになった。この本も面白いのでおすすめです。
以下、心に残った箇所をメモ致しましたので、よろしければご覧くださいませ!いつもながら本文を編集して記載しております。原文の意図と変わっている箇所があったらごめんなさい。
絵巻の思想と俳句
日本文化の本質を「絵巻の思想」に求めたいと思う。詩歌も美術もそこから味わいたい。芭蕉も北斎も絵巻の思想のゆたかな体現者だ。
絵巻の面白さはひと目で見渡せる画面に心身をあずけて、好きな部分に視線が吸われることにある。あるいは「先ほどは」と巻き戻すことにある。日本文化における時間は自在に変幻する。異質で多彩な時間が渦巻き、鑑賞者に咲いかけてくる。それはなんとも多声音楽的で、祝祭的な時間と空間である。
俳句における「切れ」は絵巻の構造と不可分である。「切れ」によって他者に開かれ、まだ見ぬ他者を迎え、時間の構造が新たに生まれる。
俳句は自我の作でも、頭の作でもないことを望んでいる。ちょうど能面が、憑りうつり時空をはるかに生きる演者を待つように。
雲の峯幾つ崩て月の山 芭蕉
「月の山」は五つの入れ子構造をなしている。
・実際に登っている出羽の山の名前である「月山」
・月に照らされた山
・山の麓の刀鍛冶の銘「月山」
・天台宗での真如の月
・女性原理の暗喩
この構造を踏まえて多声音楽的に鑑賞してみよう。
今朝もわたしは見た。炎暑の大空に峯雲が雄々しく聳え立つのを。すでに日は没し、積乱雲は跡形もない。冷ややかな月光に洗われる月山よ。あなたは知っているだろうか、雲の峯はわが煩悩、風狂の思いでもあったことを。いつか真如の月にかがやくまで、わたしは歩き続けよう。十七音の詩という刀を、月の香になるまで鍛ち続けよう。
芭蕉その人の、全体重をかけた直感把握の表出である。ピカソの試みたキュビスムに勝るとも劣らない多面体の表現と言えよう。「俳句は瞬間を詠むものである」という俳句作法は、実は初心者のためのものである。
俳句の真価は、見たままを再現する写生にはない。名句はつねに多義性にゆらぐ。弱く小さな詩は、目に見えないものの世界へも水輪をひろげ、長大な時空に交わろうとする。
いい句ほどいっぽんの木のように、地に生やした根元からすっくりとたち上がり、ゆたかな木かげをひろげ出すのである。
「連句の発句が独立したものが俳句」という定説は、発祥論にすぎない。追随すべき本質論ではないのだ。
連句はこの世のあらゆる諸相がなだれ込んで絵巻のような一巻をなす。すぐれた俳句はその切れに、連句一巻に勝るとも劣らない乾坤を畳みこんでいる。俳句はもはや、連句一巻の止揚なのだ。
流灯や一つにはかにさかのぼる 蛇笏
川の流れを灯籠が遡上しようか、と問う人がいるかもしれない。ありえない事象も「一つにはかに」という決然たる調べによって、現実を超えるのだ。詩のリアルを獲得し、言い得ぬものを響かせる俳句を、名句の呪力といってみたい。
作者が一句を全人的に生き切ったとき、ことばは、不思議な生き物としての呪力を響かせる。俳句の孕む世界は無辺である。生と死は地続きであり、過去と未来は現在になだれ込む。
定型詩とは言葉の蜜
従来、「五七五(七七)は、日本語を母語にする者にとって、心地良く安定感を感じる音数律である」と言われていた。
ところが、南仏の大学で講演をしたところ、「俳句の朗誦が音楽のように、歌のように聞こえました」と口々に言われた。
五七五(七七)は、日本語それ自体にとって親和性が高いのではないか。フランス語のソネットやオードを聞くたびにうっとりした。唐詩も原語のCDにたまげたことがある。
各言語において結晶度の高い定型詩は、人類の耳に普遍的な快美をもたらす。もしかしたら定型詩とは、それぞれの国の「言葉の蜜」なのではないか。
「興」と俳句
西暦500年頃の、『詩品』という文学論では、詩の技法として重要なものから順に、
・興:ことばの余白に情趣をひびかせる(≒隠喩)
・比:思いをものに託す(≒直喩)
・賦:ことがらをありのままに記す(≒直叙)
を挙げている。
三つの技法別に秀句を挙げてみよう。
・賦:写生句にほぼ重なる
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 中村汀女
咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり 高浜虚子
・比:思いがけないものに類似を見つけ出す。橋が架かる豊かさ
ありし夜のごとく灯れるおぼろかな 久保田万太郎
天に乳を含まするごと芽吹くなり 奥坂まや
・興:おのおのの感性が多声音楽を生む。俳句の醍醐味
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
玉音を理解せし者前に出よ 渡辺白泉
青空の暗きところが雲雀の血 高野ムツオ
いいえないものを表す隠喩の「興」は、西洋の象徴詩に重なるところがあり、目にみえないものを鼓舞してやまない。「興」の俳句は読み手にたいして「ここにあなたのいのちの酒を満たして」とささやく。「興」はモノローグではない。作者と読者の想像力の内実を足元からゆり起こす。
「興」は発想法を規定する。それはある物を借りるのではなくて、その物によるよりほかにないのであり、その物がすでに続いて起こる情詞を用意しているのである。
「興」という隠喩は、自らを隠すからこそ「はじまり」となり、「はじまり」を起こすのである。
切れと余白
雪はしづかにゆたかにはやし屍室 石田波郷
「はやし」に切れがある。もしも「雪はしづかにゆたかにはやき屍室」だったら凡句だった。「はやし」という切れが、無音の空間をひびかせる。屍室とは、波郷がいる結核療養所の遺体安置所である。
この雪は、花も若葉も紅葉も、やがて真っ白に呑み込む雪である。空間も、結核療養所の屍室という状況を超えて、あらゆる人の死の床に変容してゆく。それこそが「切れ」のもつ呪力である。名句の季語は、最終的に当季の枠を抜け出してゆく。
ゆめにみし人のおとろへ芙蓉咲く 久保田万太郎
名詞「おとろへ」に、切れの深淵がある。中七で切れながら、上句と下句はもう一度ひたし合う。乗り入れあう。蜃気楼めいて変容し、ゆらぎつづける切れである。
万太郎の切れは、「うつり」「ひびき」を重んじた連句の付合めく切れである。切れには俳人の固有の息づかいがこもるのである。
切れとは、作り手と受け手の記憶や感情や体験が変容しつつ、なりかわり合う空間である。作り手と受け手は、絵巻のような水平関係のなかで、なりかわり共感し合う。ちっぽけな一人のいのちは、余白において、他者や過去や未来へと、限りなく開かれてゆく。切れることでつながろうとする。
ひとくちに切れと言っても、秀句と駄句の切れには天と地ほどの差がある。サンダルで鼻歌まじりにそこらへんの溝を跨いでも薄っぺらな句にしかならない。名句とは、切れを、芙蓉がゆらぎ白雲がゆきかう深潭になし得た句である。
ひとは虚実のゆたかな混交に生きる。俳句の切れはその虚実のせめぎあいをいのちとする。俳句の切れは、言い換えれば自己完結しないこと。どんなに遠く隔たった人ともあたたかく深くつながることができる。双方向芸術HAIKUが愛されるゆえんはそこにある。
以上です!次は『余白の祭』を読もうと思います。楽しみです。