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違和感を強制インストールする『アメリカーナ』

『アメリカーナ』という本を読んだ。
一気読みした。

きっかけは打算的だ。
Black Lives Matter を考える上で参考になりそうだったからだ。
地元の図書館にあったことも大きい。

結論。
もっと早く読めばよかった。

そうすれば、4年前に訪米した時、多感な目であの国を見れただろう。
東京ですれ違う黒人を、想像を働かせて観察できただろう。

この本は、感性を変容する威力が高い。
それは多分、優れた芸術ということだと思う。

『アメリカーナ』の登場人物とも舞台とも、僕は共通性が少ない。それでも感性がある程度リセットされた。だから、ナイジェリア人やアメリカ人、あるいは女性や黒人は、より衝撃を感じやすいと思う。

主人公はマイナーな立場を選ぶことが多く、世界に対して違和感を抱き続ける。その違和感を利して、生きていく。だが、一定時間を経過すると異なる立場を選び取る。そしてまた新たな違和感を捉える。

一瞬、自分語りをすると。僕は「田舎から出てきて、東京に居続けるのは、才能がいることだ」と思っている。これだけ単一民族性の強い国で、北海道の漁師町から東京に来ただけでも、拭えない違和感はある。例えば「近くの人に甘えりゃいいだけなのに」と思う場面が断続的にあったりする。

そうしたマイナーな立場ゆえの違和感は、誰しも、何かについて、あるはずだ。その違和感が、『アメリカーナ』では360度に発信され続ける。人種差、性差、階級差……。

だから『アメリカーナ』の世界で提示される違和感は、自身の違和感の延長として、自分ごととして、受け取ることができる。そうして、自身の感性が、多かれ少なかれ影響を受けるのではないだろうか。

OSが違えばアプリをインストールできないように、別世界の具体的な話というのは、影響を受けにくいものだと思う。まさか自分がナイジェリア人の物語を、これほど親身に思える日がくるなんて想像していなかった。違和感を強制インストールする力が『アメリカーナ』にはある。

読書する趣味を持っていてよかったなと思う。
でも、もっと早く読めばよかった。
オススメです。

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