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フッサール『デカルト的省察』岩波文庫 序章・第一省察 読書メモ

序章

第一節

  • デカルトの『省察』の目標は、哲学を絶対的に基礎づけられた学問へと全面的に改革することだった。それに応じてあらゆる学問を改革すること。哲学はさまざまな学問の非自立的な構成要素。

  • 学問は体系的に統一され、初めて真正な学問になることができる。

  • 歴史的に見ると諸学は真正さを欠いている。

  • デカルトは諸学を普遍的に統一することを目的として、主観に向けられた哲学を使用した。

  • この主観への転向は、2つの段階において行われた。

  • 第一に自分の信じてきた全ての学問を転覆させなければならない。そしてそれを立て直すよう試みる。

  • それは自らの絶対的な洞察に基づいて責任を持てるような知とならねばならない。

  • それは全くの無知から始めなければならない。

  • デカルトの省察は、哲学を始める者に必要な省察の原型。そこからのみ哲学は根源的に誕生する。

  • デカルトの省察の姿勢を読む。

  • 第二は哲学する自我に立ち帰ること。純粋な思うことをするエゴへと立ち帰ること。

  • それゆえデカルトは経験と思考のうちに自然に生きている時には確かなものも、それが疑う可能性がある限り方法的な批判を向ける。疑いの可能性があるもの全て排除することによって、のちに残るはずの絶対に明証なものを得ようとする。

  • 省察するものは、ただ自らの思うことをする純粋なエゴとして自分自身を絶対に疑い得ないものとしてたとえこの世界が存在しないものとしても破棄できないものとして保持している。

  • このように還元されたエゴが、一種の独我論的に哲学し始める。

  • このエゴは、自分自身の純粋な内部から、客観的な外部を導き出すような、疑いの余地のなく確実な道を探し求める。

  • デカルトはまず神の存在と誠実さを導き出し、それから客観的な自然、有限な実態の二元論を導き出す。そして諸学そのものを導き出す。

第二節

  • デカルトの省察により基礎づけられた諸学自身がその省察を気に留めなかった。

  • デカルトは素朴な客観主義から超越論的な主観主義へという根本的な転換を行った。

  • この超越論的主観主義は、いつも新たに始めながらも、いつも不十分に終わる試みを繰り返しつつ、ある必然的な最終系を目指している。

  • 近代の初頭、人間の文化全体が科学的な洞察によって導かれ照らし出され、それによって新たな自律的な文化へ革新されるという理想があった。

  • しかしその理想は衰えていった。 

  • 今日私たちが持っているのは、統一を持った生き生きとした哲学ではなく、際限なく広がりほとんど関連なくなってしまった哲学文献の山だ。

  • 客観的に通用するとは、相互批判によって洗練され、どんな批判にも耐えられるような成果のことに他ならない。

  • 本当の研究、本当の協働作業はどのようにして可能であろうか。

  • 今日の学問は統一性に欠けている。

  • 目的は哲学の文献全てをデカルト的な転覆の中に投げ込み新たに構築する必要がある。

  • 究極的で考えられる限りの無前提性を目指す哲学、あるいは、自ら生み出される究極的な明証から本当の自立のうちで形成され、それに基づいて絶対的な自己責任を持つ哲学。

  • 以上が超越論的現象学の道筋。

  • デカルトの姿勢は評価するものの、デカルトとその後継者が陥った、誘惑的な過ちは避けなければならない。

第一省察

第三節

  • デカルトは学問を一本の樹に喩えていた。「哲学全体が一本の樹のようなもので、その根は形而上学、幹は自然学、この幹から出る枝は他の全ての諸学で、これは大別して三つの主要な学、すなわち、医学、力学及び道徳にまとめられます。」

  • 本書では絶対に基礎付けられる学問という理念そのものを前提としてはならない。ましてやそうした可能性のための何らかの規範とか、真正な学問にふさわしいことが自明のように見える論理式とかすでに決まった物にしてはならない。

  • ところが、デカルトは学問について一つ理想を持っていた。幾何学あるいは数学的自然科学という理想を持っていた。

  • デカルトは学問の全体の構造を幾何学の秩序に従って、演繹を絶対的な基礎づける公理論的な土台に立てなければならないと考えることは当然であった。

  • フッサールはデカルトの考えを全て引き継ぐべきではないと考えた。

  • しかしデカルトの学問を絶対的に基礎づけるという考えは放棄しない。

  • フッサールが学問の普遍的な理念を引き出すのは、諸学から。

  • フッサールの徹底的で批判的な態度においては、それら諸学は単に学問と想定されたにすぎないものになるので、その普遍的な目標となる理念も、同様の意味で単にそう想定されたものに過ぎないものにならざるおえない。

  • それでもこの想定されただけで、まだ規定されていない流動的な普遍性においても、フッサールは目標となる理念を持っている。

  • この理念を暫定的な仮定として受け入れ、試しにそれに身を委ねる、私たちの省察の中で試しにそこから出発する。

第四節

  • まず、第一になすべきことは曖昧な一般性の中で念頭に浮かんでいただけの指導理念を明瞭にすること。

  • フッサールの考察全体の意味には次のことが含まれる。文化の事実としての学問と真実かつ真正な意味での学問は同じではないこと。

  • 文化の事実としての学問もまたその事実性を越えて自らのうちに過大な要求を持っていてそれは単なる事実性のうちではすでに満たされた要求として認められるものではない。この過大な要求のうちに、理念としての学問、真正な学問という理念が隠されている。

  • 学問の営みが持つ意図の中へ一歩一歩進んでいくとき、真正な学問という、一般的な目標となる緒契機が、最初に区別され開示されることになる。

  • まず判断する働きと、下された判断そのものとを最初に解明していく。

  • 下された判断は、直接的判断間接的判断と区別される。

  •  関節的判断には、ほかの判断へ意味的に関係していることが含まれる。つまり、ある判断を持つ信念が別の信念を前提にしているということ。

  • 基礎づけられた判断を求めようとすることや、基礎づける働きの解明も間接的判断に属している。この基礎づける働きのうちで、判断の正当性や真理がーあるいは失敗した場合には、不正や虚偽がー証明されるからだ。

  • 一度行われた基礎づけや、そこで証明された真理に繰り返し立ち返ることができる。

  • そこで同一のものとして意識された真理を繰り返し実現することで、それら真理を、自由に繰り返し実現することで、それが一つの認識と呼ばれる。

  • 19世紀には、心理学主義的な考え方の中で、明証感情が真理の主観指標とされてきた。フッサールは心理主義を批判しつつ、明証を現象学的な立場から捉えなおそうとした。

  • 真正な基礎付けの場合、判断は「正しい」とか「一致している」ということが示される。

  • 判断することは思念することである。

  • それに対して「判断」(判断されたこと)は、ただ思われた判断や思われた事態、あるいは思念された事象や思念された事態である。

  • これに対立するのは卓越した仕方で判断しながら思念することであり、これが明証である。

  • 明証においては、単に事象から離れて思念するものではなく、事象が「それ自体」として、事態が「それ自身」として現前し判断するものはそれを自覚している。

  • それに対しただ思念しながら判断することは、それに対応する明証への意識において移行することを通じて事象や事態に向かっている。

  • この移行はそれ自身、単なる思念を充足するという性格、[思念と事態の]合致という仕方での綜合という性格を持っており、それは、以前は事象から離れた思念の正当性を明証的に自覚することである。

  • 関節的判断は直接的判断を前提としており、これに基づけられることになる。関節的判断は事象から離れて思念することであり、直接的判断は事象の近さにおいて、事象がそれ自身として現前している。フッサールはこの場を明証と読んだ。

  • フッサールは判断(広い意味での、存在の思念)と明証を、前述定的な判断と前述定的な明証を区別しなければと考えた。

  • 述定的な明証は前述定的な名称のうちに含んでいる。

  • 学問は表現を持って判断しようとし、判断や真理を表現されたものとして、固定して保持しようとする。

  • 表現されたものは明証である場合とそうでない場合がある。

  • しかしそれゆえ表現は基礎付けられる。

第五節

  • 絶対的な基礎づけと正当化による一つの普遍学を、デカルトは数学とし、フッサールは超越論的現象学とした。

  • 明証の原語Evidenzは、語源的にはex(外へ)とvidere(見る)からきている。

  • 明証というのは、存在するものとその様態とについての経験であり、まさにそれ自身を精神によって見ることである。

  • 明証や経験が示すものと矛盾するとき明証の否定が生まれる。

  • 真と偽、批判的に吟味することとそれによって明証的に与えられる者に合致すること、これらは日常ありふれた主題であり、これらは学問以前の生活のうちでも絶えず役割を果たしている。

  • いつも移り変わる相対的な目標を持つに過ぎない日常生活においては、相対的な明証と相対的な真理で十分である。

  • それに対して学問は、決定的に万人に通用し、また通用し続けるような真理を求め、したがって、全く新しい種類の、最後まで遂行された確認を求める。

  • 学問は学問的に真正な真理を近似的に接近するとともに、日常的な認識と自分自身とを無限に乗り越えていくことができると考えている。

  • 学問と哲学の理念には、それ自体として先なる認識からそれ自体として後なる認識へという認識の秩序が属している。

  • 「アプリオリ(より先なるものから)」「アポステリオリ(より後なるものから)」

  • それ自体=「真理自体」「命題自体」

  • あらゆる諸学と同様に、論理学もまた普遍的な転覆によって通用しなくなっている。

  • フッサールは真正な学問という想定された目標に向かっていくなかで、自分で明証から組み上げたものでないもの、問題の事象や事態が「そのもの自身」として現前するような「経験」から汲み上げたものではないものについては、いかなる判断も下さず、通用させてはならないと考えた。

  • 学問の明証性がもつ表現という側面も考慮されなければならない。

  • 日常の言語は流動的で多義的で、表現の完全性という点からあまりに不十分。

  • 日常の言語が使われるにしても、その意味を学問的に生じてきた洞察に根源的に方向付けることで、新たに基礎付け、この意味でその表現手段を確定することが必要となる。

  • 真正な学問という理念には認識(真正の認識)の体系秩序という形式が含まれているのだから、最初の問いとして、普遍的認識の段階的構造の全体を支えるべき、そして支えることができる、それ自体で最初の認識への問いが生じてくる。

  • これはあらゆる明証に先行するものとして認識可能なはずである。

第六節

  • 明証の理念的に要求された完全性は、いくつかに区別される。

  • 哲学的省察の今のような始まりの段階では、私たちは果てしない無限の、学問以前の経験と明証を持っておりそれらは、完全なものもあれば不完全なものもある。

  • 不完全さとは、事象ないし事態のそのものが与えられる際の不十分さ、一面性、相対的な不明確さ、不明瞭さをいみしている。それゆえ経験が充足されていない予備的思念や付帯的思念といった要素を帯びていることを意味している。

  • それが完全になることは、調和的な経験が相互的に進行し、これら付帯的思念が実際にそれを充足する経験へと至ることである。

  • 中世スコラ哲学以来の対応的真理観を示す「真理は物事と知性の合致である。」

  • 疑う余地のないと呼ばれる完全体は高い権威を持っている。それは場合によっては十全でない明証においても現れる。

  • 明証を持っていたのにも関わらず疑わしいものになるとか存在しないかもしれないとか、そうした事態になる可能性が開かれていることは、明証への働きへの批判的な反省によって、いつでもあらかじめ認識することができる。

  • それに対して、疑いの余地のない明証というのは、明証的な事象や事態が存在することの確実性があるだけでなく、批判的な反省によって、同時に存在しない可能性が端的に考えられないものとして露呈させる。

  • それ自体で最初のものとしてあらゆる考えられる明証に先行する、という洞察を疑いの余地なく伴っていて、しかも同時にそれ自身疑いの余地がないことが洞察されるような、そういう明証であるかどうかの問いである。

第七節

  • それ自体で最初の明証への問いは、「世界が現にあること」が挙げられるのではないだろうか。

  • 私たちはこの世界が疑いなく存在するものとして眼前にあるような持続的な経験を持っている。

  • この明証への疑う余地のないという性質をどれだけ要求することができるか、

  • 確かに普遍的な感性的経験のもつ明証において、世界は絶えず眼前に与えられている、しかし言うまでもなくこの感性的経験を直ちに、疑いの余地のない明証として要求することはできない。

  • 「夜は眠り、そして睡眠中には、そうした狂人たちがめざめているときに夢想するのと同じこと全てを、あるいはまた時折はそれよりもいっそう真実らしからざる事を夢想する。。覚醒は睡眠から決して確実な標識によって区別されることができなということ」

  • 世界経験の持つ明証は、学問を基礎づけると言う目的からすれば、私たちはそれを初めから直接的に疑いの余地がないものと要求してはならない。

  • 自然的な経験の名称に基づく世界の存在は、私たちにとって自明の事実ではなく、それ自身一つの効力を持った現象に過ぎない。

  • その中で何らかの判断のために、なお存在の基盤が残されているか。

第八節

  • 疑う余地がないほど確実で、究極的な判断の基盤としてのエゴ・コギトへ向かう転換であり、根本から始める哲学はその上に基礎付けられる。

  • まず、今のままでは私たちにとって通用する学問もなければ、存在する世界もない。

  • このことは他者の存在にも当てはまるので、コミュニケーションで使うような(私たちという)複数で語ってはいけない。

  • 物理的な自然のみならず、具体的な生活の周囲世界全体が、もはや私にとって存在ではなく、単なる存在という現象に過ぎなくなる。

  • それは存在なのか仮象なのか、批判的吟味に基づいて決定することになろうとも、私が持つ現象として無ではない。

  • あらゆる感性的な経験のもつ信念、および、感覚に基づく経験を差し控えて、私にとって経験世界の存在が通用しないようにしたとしても、この私が差し控えていると言うこと自身は何ものかであり、それは経験する生の流れ全体にある。

  • しかも、それは私にとっていつもそこにあり、いつも現在という場から見てもっとも根源的な原本的性格を持って、知覚において意識されており、しかもそれ自身として意識されている。

  • また、同じものについて、ある時はこの過去、またある時は別の過去が想起によって再び意識されることになり、しかもそこでは、それが過ぎ去ったものとして意識される。

  • 私はいつでも反省によって特別に注意する眼差しをこの根源的な生に向けて、それがそれ自身として捉えている。

  • このことは哲学する自我として行われている。

  • この反省する生において経験される世界は、ある仕方では私にとってあり続けるし、それにそのつど属している内容とともに、以前と同じように経験される。

  • しかし、私は哲学的に反省するものとして、世界の経験において自然に存在を信じることはしない。

  • また、私たちがもつ思念のうちには、世界の経験における信念を超えて私の生の流れに属するようなものもあるが、また私の非直観的な表象、判断、価値づけ、決心、目的と手段の設定等についてもこの世界を前提としているため、同じように通用させない。

  • 注意を向ける自我として、直観されたものに対して態度決定を差し控えるだけである。

  • 判断、理論、価値、目的などはすべて
    ただし「単なる現象」という様態で通用しているだけである。

  • 眼前に与えられている客観的な世界についてどんな態度決定することも、したがって存在について態度決定することも、このようにすべて差し控えること(判断停止(エポケー))は、私たちを無の前に立たせるわけではない。

  • このことは私の純粋な生が、つまり、現象学の特別な広い意味における現象の全体が、自分のものとなる。

  • 判断停止(エポケー)によって、自分を自我として、しかも、自分の純粋な意識の生をもった自我として純粋に捉えることになる。

  • 世界内部の全てのもの、すべての時空的な存在が私にとって存在するとは、私にとって意味している。

  • 世界とは、私にとって、そもそもそのようなコギトにおいて意識され、私にとって通用しているような世界以外何者でない。

  • 私は、私のうちでまた私自身から意味と効力をえている世界とは別の世界に住み込み、その中で経験し、価値づけをし、行為をする、 ということはできない。

  • 実際には世界の自然的な存在には、それ自体の先なる存在として、純粋なエゴとその思うことの存在が先行している。

  • 自然的な存在の基盤は、その存在の効力においては二次的であり、それは絶えず超越論的な存在の基盤を前提にしている。

  • 超越論的な判断停止(エポケー)という現象学の基礎的な方法は、超越論的な現象学的還元と呼ばれるのである。

第九節

  • 「我あり(エゴ・スム)」あるいは、「思うところの我あり(スム・コギタンス)」ということが疑いの余地なく語られうること、それゆえ、私たちが最初の疑いの余地がない存在の基盤を足元に持っていること、このことを周知のようにデカルトはすでに見通ししていた。

  • これは以前私たちが解明してきた概念に対応している。

  • この超越論的主観性には、ただ想起によってのみ近づくことのできるような、それぞれの過去も不可分に属しているのだろうか?

  • 私たちの疑いの余地がない明証がどこまで及ぶか、その射程が、緊急の問題にならなければならない。

  • 自己経験においては、エゴが自分自身にとって根源的に近づくことができるものとなる。しかし、この経験がそのつど提供するのは、本来十全的に経験されるものの核のみである。

  • 我思う(エゴ・コギト)という命題の文法的意味が表現している、生き生きとした自己の現在のみである。

  • それを超えると、無規定の一般的で推定的な地平、本来的には経験されないが必然的にともに思念されている地平が広がっているだけである。

  • ここには、自分の過去や自我に含まれる超越論的な能力や、習慣によって固有なさまざまなものが属している。

  • 超越論的な経験の疑いの余地が無い確実性は、私の超越論的な「我あり」にも当てはまるが、それには開かれた地平の無規定的な一般性がつきまとっている。

  • それ自体で最初の認識の基盤が現実にあることは、それゆえ、その存在を規定するものや、「我あり」の生き生きとした明証が続いている間も、まだそれ自身が開示されず、ただ推定されているだけのもの、については直ちに確かというわけでは無い。

  • それゆえ、疑いの余地のない明証のうちに含まれる推定は、それが充足される可能性に関して、その射程が批判的に吟味され、場合によっては疑いの余地がなく限界づけられるだろう。

  • 超越論的な我を設定することで、私たちは、たとえ疑いの余地のないことに関する厄介な問いを差し当たり脇に置いておくにしても、そもそも、ある危険な地点に立つことになる。

第十節

  • デカルトの省察にはある先入観が潜んでいる。

  • デカルトの省察は、数学的自然科学を疑いの余地のない「公理」としており、それが他の証明されるべき仮説や、帰納的に基礎づけられる仮説と一体となって、世界について演繹的に説明する学問のための基礎を提供しなければならない。

  • せっかく発見した「我(エゴ)」を「世界の小さな末端」と解釈してしまった、というのがフッサールがしばしばデカルトに向ける批判点である。

  • 我(エゴ)に生まれつきそなわった原理にしたがって正しく導かれた推論により、残りの世界を導き出していくことが問題になっているかのように、こんな考え方を自明のこととしてはならない。

  • しかし、残念ながらデカルトの場合は、我(エゴ)を思うところの実体(スプスタンティア・コギターンス)とみなし、それと不可分に人間の魂(メーンス)または霊魂(アニムス)とみなし、因果律による推論のための出発点とするという、目立たないが致命的な転換によって、まさにそんなふうに考えてしまった。

  • その転換によって彼は、不合理な超越論的実在論の父となった。

  • それ故、私たちが判断停止(エポケー)によって開かれた我思う(エゴ・コギト)の場で、実際にさしあたりまったく直接的に与えられるもの以外は通用させず、自分で見るもの以外を何も表現にもたらさないようにすれば、生じることはない。

第十一節

  • 経験世界の存在に対して自由に行う判断停止(エポケー)によって、省察する者である私の眼差しに現れるものを純粋に捉えるならば、世界は存在しようとしまいと、また、私がそれについてどのような決定を下そうとも、私と私の生は存在の効力を持ったまま影響を受けることなくとどまっている。

  • フッサールは『論理学研究』第二巻補遺において「内的知覚と外的知覚は、これらが自然的に理解されているかぎり、まったく等しい認識論的性格を持つ」と言っている。

  • 現象学的な判断停止(エポケー)は、客観的世界の存在の効力を停止し、したがって、まったく判断の場から遮断するとともに、あらゆる客観的に捉えた事実と同様に、内的経験の事実についても、存在の効力を停止し遮断する。

  • 現象学的な判断停止(エポケー)は、心理学的な自我は存在しない。

  • 現象学的な判断停止(エポケー)によって私は、私の自然な人間的自我と私の心的生活ー私の心理学的事故経験の領土ーを、私の超越論的現象学的な自己経験の領土へと、還元する。

  • 心理学的自我と超越論的自我は区別される。

  • 「超越論的」と「超越的」とは、対をなす相関的な概念である。「世界の超越性」に属するものは「超越的」と呼ばれ、その根拠に関わる問題は「超越論的」と呼ばれる。

  • 還元された自我が世界の一部ではないように、逆に世界と世界内部のいかなる客観も私の自我の部分ではないし、また私の意識の生のうちにその実質的な構成部分として、感覚与件や作用の組み合わせとして、実質的に見いだされるものではない。

  • 「実質的」と「実在的」は区別される。意識の生そのものに実質的に属する(内在する)ものを「実質的」とした。

  • 世界内部のすべてのものの固有の意味には超越性が属している。

  • しかも、この超越はそれを規定する意味の全体とその存在の効力を私が経験することからのみ得ており、また得ることができるにも関わらず、超越的である。

  • 世界の固有の意味には、この実質的に含まれてはいないという超越性が属しているとすると、それに対して、自我は世界を、効力の持った意味として自らのうちにになっており、この意味によって必然的に前提されているのだから、この自我自身は現象学的な意味において超越論的、と呼ばれることになる。


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