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エッセイ#12『つまらない思いが寂しいと感じる』(推しの子The Final Act)
映画『推しの子 The Final Act』のネタバレを含みます。
『推しの子 The Final Act』を見に行った。アニメ第一期、そして映画公開前に配信されたドラマを見た知識で映画館に足を運んだので、結末を知らない状態。
映画の結末ではアクアが真犯人のカミキヒカルと共に海へと身を放り投げ死亡し、それでもみんなの生活は続いていくというもの。それに対して少し気に入らないと感じる自分がいて「うわー、アクア殺しちゃうのか」なんて思ったりした。元気に振る舞いつつも母と兄をなくしたルビーになんだか切ない気持ちになったし、アクアにはもっと良い選択肢がなかったのだろうかと。
こんな風に映画やドラマを見ている時についその物語の製作者に対しての感想が出てくる事がある。今回のような「終わり方」など演出的な話だとか。偉そうにそんな事がよく出てきてしまうのだけど、この作品を見ていてそういった制作者に対しての感想は切り離して考えるべきではないかと思いついたのだ。一瞬結末が気に入らないと感じたものの、その他は胸熱な展開が多く登場人物のオーラ含めて大好きだった。
実際自分自身も決められた運命を歩んでいると思っているし、さまざまな作品に出てくるキャラクターもまたそうであると思う。今作でアクアが死を持って復讐し、運命がそうであるとするならば結末が気に入らないなんてのは変な話だし、そんな理由でドラマを通してずっと楽しく心躍らせた時間さえも消え去ってしまったかもしれないと思うと恐ろしい。
もっと良い選択肢は振り返ればあるかもしれないが、そうなってしまえばもうそれは運命で、今回の『推しの子』という世界線においても例外ではないのだと思う。僕たちが生きているように、キャラクター達もまた実際に作品の中で生きているわけだから。
製作者に対して感想を抱く事で楽しいと感じる事もあるからそれもひとつだけど、自分自身でいうとそれが負の感情であった場合あまり良い気分ではない。それは作品に対してではなく自分自身の感性に対して。自分とは違った経験をした人が、たくさんの想いの中で生み出した作品を楽しめない感性であるという事がなんだか寂しいと感じる。
その作品のどこかひとつの好きな部分に出会えたら、それはとても幸せな事だと思うし、作品のどこもかしこも好きじゃないものに出会えたのならそれも逆に幸せだし、あとたまに全部が好きすぎるバグのようなものがあるのも幸せである。